中山 久蔵(なかやま きゅうぞう)3
文政11年3月21日
(1828年5月4日) - 大正8年(1919年)2月13日。
この頃の開拓使の方針はケプロンやクラークの提言に従い
米作りを止め、ジャガイモや小麦作りを奨励していたが
しかし、久蔵は米こそ農民の命と思い米作りに励んでいました。
1873年(明治6年・45歳)大野村(函館の北)へ行き、寒さに強い「赤毛種」の
種籾を分けてもらい水稲の試作を始めました。
水田の水温を一定に保つことが大事であると思い、大きな風呂樽を札幌から
取り寄せ、大きな石を焼き、それを風呂桶に入れ湯を沸かし、昼夜を問わず風呂
の湯を水田に運び、まさに執念ともいえる苦労を重ね、遂に発芽に成功しました。
その秋には反当り345kgを収穫し、北海道の米作りの夜明けとなりました。
久蔵が育てた赤毛種の種籾は空知や上川の農家に無償で配布され、
ここから全道に米作りが拡がりました。
今や北海道は日本一の米の生産量を誇り世界の米作りの北限地となっています。
その後、久蔵は56歳の時、自宅を改造し島松駅逓所の経営を始め、
今年(2010年)は、それから124年になります。
開拓期に重要な役割を果たした久蔵は、1919年(大正8年)91歳で亡くなりました。
現在、奇しくも島松沢の国指定史跡、旧島松駅逓所の横には
中山久蔵とクラーク博士の記念碑が並んでいます。
これも時代の流れでしょう。
中山 久蔵(なかやま きゅうぞう)2
文政11年3月21日
(1828年5月4日) - 大正8年(1919年)2月13日。
久蔵は現在の大阪府南河内郡太子町で、
1828年(文政11年)松村三右衛門の次男として生まれました。
江戸から明治へ時代が大きく変わろうとしている頃で、家の跡取りができない
次男として生き様をどうするのかが中々定まらず17歳で家を出て大阪と江戸
の間を流浪していました。
25歳のころ仙台藩士片倉英馬の下僕として仕えることになり、
仙台と白老の間を何度か往復するようになりました。
やがて時は、京都では鳥羽伏見の戦い、東北では新政府軍と旧幕同盟軍
が戦うなど風雲急を告げ、久蔵は何を思ったか最後の将軍であった徳川慶喜
が恭順謹慎の身となっている駿府(現在の静岡)へ移り8ヶ月位滞在して仙台
に再び戻り、そこで北海道移住を決意し1869年(明治2年)12月白老に渡りました。
時に41歳でした。
人づてに苫小牧に移り開墾に着手したが、土壌が開墾に向かないと判断、
1871年(明治4年)紹介された現在の島松沢に移りました。
その時に姓を中山に改めました。
土地は沢に囲まれ小川が流れ開墾に向いていましたが、あるべき小屋は屋根
もなく朽ちたもので、熊笹を積み重ねその中に入り込んで寒さをしのぎました。
昼夜にわたり森林を切り開墾地を広げ、念願の米つくりに挑戦をしました。
驚異的な久蔵の働きは評判となり開拓使にも知れ、
1872年(明治5年)松本十郎判官から一人分の扶助がありましたがこれを辞退
し自主独立を貫きました。
中山 久蔵(なかやま きゅうぞう)1
文政11年3月21日
(1828年5月4日) - 大正8年(1919年)2月13日。
日本の農業指導者。
明治期に北海道で初めて米作りを成功させた先駆者。
北海道稲作の父、または寒地稲作の父と称される。
生い立ちと経歴
文政11年(1828年)3月21日、
河内国石川郡春日村(現:大阪府南河内郡太子町春日)
の農業を営む旧家に生まれた久蔵は17歳の頃、家を飛び出し諸国放浪した後、
25歳(1853年、嘉永6年)で仙台藩士・片倉英馬の下僕となり、
仙台藩が蝦夷地警護を目的に構築した白老元陣屋と仙台をたびたび往復した。
維新後は北海道開拓を志し、勇払(現苫小牧市)、島松(現北広島市)で開拓に従事。
島松では駅逓(現在は国の重要文化財)を開業した。