伊達市開拓記念館
2008/10/10 00:20:23
伊達市開拓記念館
伊達市は、明治3年に仙台藩一門亘理領主伊達邦成
とその家臣達による集団移住によって開拓されたという
特異な開拓の歴史を持つまちです。
開拓は私財をもって行われました。
とその家臣達による集団移住によって開拓されたという
特異な開拓の歴史を持つまちです。
開拓は私財をもって行われました。
美術品や家宝の多くは開拓資金して売り払
われましたが、次代に伝えるべき貴重な品は
残され、1958(昭和33)年に開拓記念館として
開館し、現在に至っています。
記念館を含む広い庭園には約60種もの樹木があり、
四季折々の市民の憩いの場として、また観光名所
として多くの人が訪れます。
われましたが、次代に伝えるべき貴重な品は
残され、1958(昭和33)年に開拓記念館として
開館し、現在に至っています。
記念館を含む広い庭園には約60種もの樹木があり、
四季折々の市民の憩いの場として、また観光名所
として多くの人が訪れます。
庭園内には重要文化財
「旧三戸部家住宅」、市指定有形文化財「迎賓館」などがあります。
「旧三戸部家住宅」、市指定有形文化財「迎賓館」などがあります。
宮尾登美子文学記念館(伊達市)
2008/10/09 00:22:19
伊達家の主な集団移住地
2008/10/04 00:47:10
伊達家の主な集団移住地
宮城県南東部、現在の亘理町周辺を治めていた
亘理・伊達家は、家臣たちと共に現在の伊達市へ集団移住した。
亘理・伊達家は、家臣たちと共に現在の伊達市へ集団移住した。
宮城県北部、現在の大崎市「岩出山周辺」を治めていた
岩出山・伊達家は、家臣たちと共に現在の当別町(札幌市の北隣)
へ集団移住した。
岩出山・伊達家は、家臣たちと共に現在の当別町(札幌市の北隣)
へ集団移住した。
宮城県南部、現在の白石市周辺を治めていた
仙台藩重臣である片倉家(白石城主)は、家臣たちと共に
仙台藩重臣である片倉家(白石城主)は、家臣たちと共に
札幌市周辺(札幌市白石区・札幌市手稲区)と
登別市幌別(室蘭市北東隣)へ集団移住した。
船岡は、亘理・伊達家の入植地に近い場所に入植した(現:伊達市舟岡)。
角田からは、室蘭市に入植後、元家老等一部を残し現栗山町角田に入植した。
伊達家
2008/10/03 00:11:36
戊辰戦争の敗北と北海道開拓
仙台藩は日本でも有数の兵数を誇り、蝦夷地警備の
経緯から、新政府軍には劣るもののそれなりの性能
の兵器を有していた。
経緯から、新政府軍には劣るもののそれなりの性能
の兵器を有していた。
しかし、薩長らがイギリスから購入した火器との性能
の差によって、薩長藩閥政府に敗れた。
の差によって、薩長藩閥政府に敗れた。
明治政府より賊軍盟主の責任を問われ、
仙台藩は、実高100万石からすると3分の1以下の28万石に減封される。
仙台藩は、実高100万石からすると3分の1以下の28万石に減封される。
この激烈な減封により、仙台藩士たちの生活は完全に破綻し、在地で帰
農する者の他、新天地を求めて北海道へ移住する者たちを大量に出した。
こうして、仙台藩による北海道開拓が行われた。
写真は伊達家の家紋。
写真は伊達家の家紋。
伊達市(北の湘南)
2008/10/02 00:41:38
伊達市(北の湘南)
明治2年8月 伊達邦成、有珠郡の支配を命ぜられ
10月田村顕允が先発し、支配地の受渡しをうけ、ついで邦成は
陸路青森を経由し支配地に着き、実地視察を行いました。
10月田村顕允が先発し、支配地の受渡しをうけ、ついで邦成は
陸路青森を経由し支配地に着き、実地視察を行いました。
胆振支庁西部沿岸に位置、内浦湾(噴火湾)に面し
道内では温暖な気候を誇り、「北の湘南」の異名を持ちます。
道内では温暖な気候を誇り、「北の湘南」の異名を持ちます。
寒冷な北海道にあって、噴火湾や洞爺湖といった豊かな
自然に恵まれ比較的温暖な町だからです。
自然に恵まれ比較的温暖な町だからです。
キンキ飯寿司、ホタテなどの海の幸も名産です。
牧場では、乳搾り、アイスクリームやバター作りなども体験できます。
毎年8月には「伊達武者まつり」が開かれ、開拓の歴史を物語ります。
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