2010/11/14 00:53:47
オホーツク文化7
開拓時代
明治5年、斜里郡の村名が定められ
ヤンベツ村、シャリ村、シマトカリ村など5ヵ村が誕生しました。
明治10年には斜里浦役場が設置され、斜里町農業開拓の先駆者と
言われている鈴木養太が入地した斜里村赤上1番地で初めてこの地に
開拓の鍬を打ち下ろしました。
長い間漁業だけの利益に頼っていた幕藩時代から、新しい時代が徐々に息づいていました。
岩手県の鈴木養太という人が
赤上(今の朱円西区)に入植したのがはじまりです。
このころは「土地払い下げ願書」という書類を出せばどこでも
好きな場所が手に入る時代でしたが、自家用作物として麦・豆類・なすなどを作る程度
で農業だけで生活することはできませんでした。
明治22年(1889年)北海道庁による斜里地方の測量が行われました。
その結果、斜里原野、アッカンベツ原野が開放され本州方面から農民が次々と入植
するようになりましたが、交通が不便でまだ農業だけでは生活ができず、大工仕事
などをしながら生活していました。
(このころの主な作物は大麦、菜種、ジャガイモなどで、お金になったのは菜種ぐらいでした。)
農業が発展したのは明治37年(1905年)ころからで、
日露戦争の影響と豊作が重なって、そのころ不振だった漁業にかわって斜里の産業の中心となりました。
また、明治時代の終りころ、三井物産株式会社が3,600ヘクタール
(東京ドームの面積のおよそ770倍)というとても大きな面積の土地を北海道庁から払い下げを受けました。
そして、この土地を三井合名会社に売りわたし北海道ではじめての請負制を導入し、
キャタピラー式トラクターなどの輸入した器具を使った進んだ農業をしていました。
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