厚岸(あっけし)の町------国後・目梨の戦い 11
2012/09/12 01:10:47
「国後・目梨の戦い」とは、
1789年(寛政元年)に東蝦夷地(北海道東部、道東)で起きたアイヌと和人の戦いのこと。
国後場所請負人・飛騨屋との商取引や労働環境に不満を持ったクナシリのアイヌが、
首長ツキノエの留守中に蜂起し、商人や商船を襲い和人を殺害した。
松前藩が鎮圧に赴き、また、アイヌの首長も説得に当たり蜂起した者たちは投降、
蜂起の中心となったアイヌは処刑された。
ツキノエ・ションコ・イトコイら帰順アイヌ40数名とマメキリ・ホニシアイヌ・セワハヤフ以下37名
の塩漬け首とともに松前に凱旋した。
松前藩主松前道広は上機嫌でツキノエらを歓待、弟で画家の蠣崎波響(かきざきはきょう)に
ツキノエらの姿を写させた。
これが現在まで伝えられている波響の代表作「夷酋列像」である。
松前藩は、鎮定直後に飛騨屋の責任を問い場所請負人の権利を剥奪、その後の交易を
新たな場所請負人・阿部屋村山伝兵衛に請け負わせた。
ロシア使節ラクスマンが通商を求めて根室に来航したのは、騒動からわずか3年後の
寛政4年のことである。
(目梨とは、今の知床半島南岸羅臼町から中標津一帯のこと)
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