2011/06/15 00:38:11
五稜郭戦争が終わり(明治2年5月11日)、国内が新政府に
よってほぼ統一されると、政府は蝦夷地を北海道と改称(明治2年8月15日)
して開拓使をおき、北海道の開拓に力をいれます。
実際に開拓にたずさわったのは、大別すれば一般移民、囚人、屯田兵と
なるのですが、なかでも屯田兵は「兵」という軍隊であり、平時こそ開墾に
従事しているものの、有事には銃を持って戦う、厳しい規律ある軍団でした。
一番の仮想敵国といえるのが、なしくずし的にシベリアに侵略し、
その反動として不凍港の確保など南下政策をとっていたロシアでした。
特に当時の樺太は日露雑居の地でしたが、ロシア人が日本人の村を襲い
略奪するなど、常に問題が絶えなかったと記録されています。
明治8年5月7日「千島樺太交換条約」によってロシアの脅威はやや薄らぎますが、
北方に対する牽制という意味でも屯田兵を北海道に配置する必要性があったわけです。
実際に屯田兵の暮らしは、軍事訓練と開墾の二本立てというべきものでした。
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