2010/07/11 00:03:36
北海道出身の作家
今 日出海 3
1932年(昭和7年)、開設された明治大学専門部文芸科の講師となった。
1935年(昭和10年)、請われて、雀承喜主演の映画「半島の舞姫」を、新興キネマ東京撮影所で制作した。
1937年(昭和12年)、パリに半年近く滞在した。
1939年(昭和14年)、明治大学教授となった。
1941年(昭和16年)11月、陸軍の報道班員に徴用され、三木清・尾崎士郎・石坂洋次郎・火野葦平らと、太平洋戦争初期のマニラに約1年滞在した(『比島従軍』、創元社1944)。
1944年(昭和19年)12月に再度徴用されたときは、マニラに着いて8日目にアメリカ軍が上陸し、ルソン島北部への約5ヶ月の逃避行ののち、被弾を修理した新司偵に乗って、制空権のないバシー海峡を越え、台湾へ脱出した。さらに台北からDC-3で、戦闘末期の沖縄上空を飛び、福岡雁ノ巣飛行場へ帰った(『山中放浪』、日比谷出版社1949)。
1945年(昭和20年)11月、文部省社会教育局文化課長となり、翌月同芸術課の初代課長となった。
1946年(昭和21年)1月、本間雅晴中将の戦犯裁判の証人に喚ばれ、戦後のマニラに飛んだ。同年7月、白洲次郎の仲立ちで、吉田茂首相にGHQの横暴を直訴し、以後吉田に親炙した。その秋、第1回の芸術祭を催した。
1947年(昭和22年)12月、芸術課長を辞し、約1年病臥した。
1950年(昭和25年)、『新潮』2月号に掲載した「三木清における人間の研究」で、三木清を批判した。小説「天皇の帽子」で、第23回直木賞を受けた(兄の東光も同賞を6年後に受賞)。その後も旺盛な執筆活動を続けた。
1966年(昭和41年)、網膜剥離で片目の視力を失った。
1968年(昭和43年)6月、佐藤栄作首相に請われて文化庁初代長官となり、約4年間勤めた。
1972年(昭和47年)10月から、国際交流基金の初代理事長を8年間勤め、モナリザの日本初公開(1974年)、および、パリの唐招提寺展を実現した。
1974年(昭和49年)、勲一等瑞宝章を受け、1978年(昭和53年)、文化功労者に選ばれた。1980年(昭和55年)、国立劇場会長となった。そのほか、放送番組向上委員会委員長、日本アカデミー賞協会会長などの役職が、80近くに及んだ。
1984年(昭和59年)7月30日没。80歳。鎌倉カトリック墓苑に葬られた。
PR