2009/02/10 00:39:20
高田屋嘉兵衛(たかたや かへえ)
護国神社へと通じる高田屋通り、函館山を背に高く
そびえ立つ3.6メートルの銅像。
帯刀し、右手には松前奉行からの論書を、左手には正装
に着替えた際に脱いだ衣装を持つ高田屋嘉兵衛像です。
1769年、淡路島に百姓の子供として生まれる。
その後、28歳のときに蝦夷箱館に来航。
箱館を本拠地として海運業を始めた。
その後、当時の幕府にその才能を認められ、
千島方面、現在の北方領土の航路を拓く命を受け、
択捉島、根室に港を開き、巨万の富を得る。
しかし、その富を自分のために使うのではなく、道路の改修、
漁業の開発、函館山への植林など、函館の発展のために使っていった。
また、1806年の函館大火の際には、被害にあった市民に物資を救援し、
今後のためにと井戸とポンプを寄贈した。
このように、高田屋嘉兵衛は北方の航路を拓くだけではなく、
函館の経済に大きく貢献した。
そして1811年、南下政策を進めていたロシア軍のゴローニン海軍中将が、
国後島を測量中に幕府によって捕らえられ、
日本に抑留されたという「ゴローニン事件」が起きた。
これをうけてロシア軍は、翌年、リコルド少佐により国後沖で高田屋嘉兵衛等
を拿捕し、日本とロシアの関係は最悪のものとなった。
しかし、獄中からの嘉兵衛の必死な説得により、ついに翌年、嘉兵衛との交換
でゴローニンが開放されることとなった。
もし嘉兵衛の説得が無かったならば、日露戦争が勃発していただろうとも言われている。
高田屋嘉兵衛
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