2010/03/28 00:45:14
北海道の政治家
昭和38年、旧北海道5区から第30回衆議院総選挙に出馬
し、初当選。
し、初当選。
以後、連続当選7回。
田中内閣で大蔵政務次官に就任した後、昭和52年に
福田内閣改造内閣で農林大臣
(省庁改称のため、1978年7月5日より農林水産大臣)、
鈴木善幸内閣では科学技術庁長官に就任した。
福田内閣改造内閣で農林大臣
(省庁改称のため、1978年7月5日より農林水産大臣)、
鈴木善幸内閣では科学技術庁長官に就任した。
昭和48年には渡辺美智雄、石原慎太郎らと「青嵐会」を結成、
若手タカ派として名を売った。
福田赳夫に私淑し、後年は、福田と政治行動を共にする。
1977年福田が総理総裁時代の自民党国民運動本部長として、
かねてから保守派の活動通じ親交有った黛敏郎に新たに創設
された党友組織自由国民会議初代代表就任要請し受諾された。
若手タカ派として名を売った。
福田赳夫に私淑し、後年は、福田と政治行動を共にする。
1977年福田が総理総裁時代の自民党国民運動本部長として、
かねてから保守派の活動通じ親交有った黛敏郎に新たに創設
された党友組織自由国民会議初代代表就任要請し受諾された。
昭和53年の自民党総裁選で福田が大平正芳に予備選で敗れた
際は、本選挙で断固戦うことを主張し、福田内閣総辞職の際には
署名を拒否する。
際は、本選挙で断固戦うことを主張し、福田内閣総辞職の際には
署名を拒否する。
昭和54年には石原、長谷川四郎、松沢雄蔵、長谷川峻らを結集
して、自由革新同友会(事実上の中川派)を結成。
昭和57年、鈴木善幸の後継を狙い、自民党総裁選にいち早く名
乗りを上げるも予備選で最下位に敗れた。
この時、田中角栄を訪ね「池の鯉は跳ねちゃ駄目か」と出馬につ
いて伺いをたてるも
「跳ねたはいいが戻れなければ日干しだ」と諭されたことは有名。
して、自由革新同友会(事実上の中川派)を結成。
昭和57年、鈴木善幸の後継を狙い、自民党総裁選にいち早く名
乗りを上げるも予備選で最下位に敗れた。
この時、田中角栄を訪ね「池の鯉は跳ねちゃ駄目か」と出馬につ
いて伺いをたてるも
「跳ねたはいいが戻れなければ日干しだ」と諭されたことは有名。
昭和58年(1983年)、札幌パークホテルのバスルームにて自殺。
その死にはいくつかの疑問点があるとして、今もって議論されることがある。
前年の総裁選での惨敗の影響が指摘され、総裁選後、睡眠薬を服用して
いたという。
その死にはいくつかの疑問点があるとして、今もって議論されることがある。
前年の総裁選での惨敗の影響が指摘され、総裁選後、睡眠薬を服用して
いたという。
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