- 2025/02/02 [PR]
- 2013/02/22 アイヌ民族の蜂起 18 和人地
- 2013/02/21 アイヌ民族の蜂起 17 武田信広(松前藩開祖)
- 2013/02/20 アイヌ民族の蜂起 16 ちょっと、ひとやすみ 単一民族論
- 2013/02/19 アイヌ民族の蜂起 15 コシャマイン蜂起の4
- 2013/02/18 アイヌ民族の蜂起 14 コシャマイン蜂起の3
- 2013/02/17 アイヌ民族の蜂起 13 コシャマイン蜂起の2
- 2013/02/16 アイヌ民族の蜂起 12 コシャマイン蜂起の1
- 2013/02/15 アイヌ民族の蜂起 11 マキリ(小刀)
- 2013/02/14 アイヌ民族の蜂起 10 刺殺事件
- 2013/02/13 アイヌ民族の蜂起 9 志海苔館(シノリダテ)
2013/02/22 10:20:32
アイヌ民族の蜂起 18
和人地
アイヌ民族と和人との戦いで、蝦夷地には民族間の大きな溝ができた。
それまでは、お互いに共存共栄の意識があったが敵対視した関係となり
和人地という垣根が出来てしまった。
この和人地の地盤をめぐる争いとなっていくのである。
和人の総大将となった蛎崎(武田)信広は、西の上ノ国から東の志海苔(箱館)
までの豪族を支配することとなった。
しかし、和人とはいっても渡島半島の南端部程度で、アイヌの地盤と人口は
比較にもならなかった。
自由に交易をしたいアイヌと交易を独占したい蛎崎一族(後の松前氏)との間には、
延々と代を継続して戦いが続いていくのである。
二代目蛎崎光広の時には、和人の掌握のために上ノ国から大館(福島後の松前)
に移り、西の上ノ国まで56キロ、東の箱館まで100キロと両方の豪族に睨みを
聞かせた(1514年) 。
この光広の時代に、又々アイヌ兄弟を和解と称して祝宴で酒を飲ませて殺害している。
この手口も延々と和人に継承されていくのである。
更に三代目義広の代では、東西の蝦夷蜂起となり義広がこれを討っている(1528年)。
そうして、四代目季広の時に和人とアイヌの交易に一つの決まりを設けた。
(写真は、四代目蛎崎季広時代の和人地の範囲)
和人地
アイヌ民族と和人との戦いで、蝦夷地には民族間の大きな溝ができた。
それまでは、お互いに共存共栄の意識があったが敵対視した関係となり
和人地という垣根が出来てしまった。
この和人地の地盤をめぐる争いとなっていくのである。
和人の総大将となった蛎崎(武田)信広は、西の上ノ国から東の志海苔(箱館)
までの豪族を支配することとなった。
しかし、和人とはいっても渡島半島の南端部程度で、アイヌの地盤と人口は
比較にもならなかった。
自由に交易をしたいアイヌと交易を独占したい蛎崎一族(後の松前氏)との間には、
延々と代を継続して戦いが続いていくのである。
二代目蛎崎光広の時には、和人の掌握のために上ノ国から大館(福島後の松前)
に移り、西の上ノ国まで56キロ、東の箱館まで100キロと両方の豪族に睨みを
聞かせた(1514年) 。
この光広の時代に、又々アイヌ兄弟を和解と称して祝宴で酒を飲ませて殺害している。
この手口も延々と和人に継承されていくのである。
更に三代目義広の代では、東西の蝦夷蜂起となり義広がこれを討っている(1528年)。
そうして、四代目季広の時に和人とアイヌの交易に一つの決まりを設けた。
(写真は、四代目蛎崎季広時代の和人地の範囲)
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2013/02/21 09:38:39
アイヌ民族の蜂起 17
武田信広(松前藩開祖)
コシャマインとの戦いで、アイヌ総大将の首を討ち取った花沢館主
蛎崎季繁の客将武田信広は蝦夷地における地位を決定的なものとした。
花沢館主の蛎崎氏養女(茂別館主下国の娘)と結婚し家督を相続し
蛎崎信広と名乗った。
また、戦乱を逃れて上ノ国に集住してきた人々を抱えて、新たに天ノ川の
北側に州崎館、ついで花沢館の西側に勝山館を築いた。
勝山館(1462年築城)の跡地が残っており、国指定史跡となっている。
勝山館がある上ノ国とは、渡島半島南部に位置し車で北に10分ほどで
江差である。
日本海に注ぐ天ノ川河口に近く、南北にのびる台地となおり標高159mの
夷王山(いおうざん)がある。国道228号線「道の駅もんじゅ」の手前を左折し
500mほど山の中腹まで車で登り、後は徒いて山頂まで登ることが出来る。
山頂には鳥居が置かれており、武田信広を祀る「夷王山神社」がある。
山頂から眺めると勝山館というのは、夷王山の地形を良く利用した館であ
ることが分かる。三段構えの要塞となっており、堅牢無比の山城である。
武田信広は勝山館に八幡宮を建立し、1494年に勝山館にて64歳で亡くなった。
(写真は、エゾノヨロイグサ)
武田信広(松前藩開祖)
コシャマインとの戦いで、アイヌ総大将の首を討ち取った花沢館主
蛎崎季繁の客将武田信広は蝦夷地における地位を決定的なものとした。
花沢館主の蛎崎氏養女(茂別館主下国の娘)と結婚し家督を相続し
蛎崎信広と名乗った。
また、戦乱を逃れて上ノ国に集住してきた人々を抱えて、新たに天ノ川の
北側に州崎館、ついで花沢館の西側に勝山館を築いた。
勝山館(1462年築城)の跡地が残っており、国指定史跡となっている。
勝山館がある上ノ国とは、渡島半島南部に位置し車で北に10分ほどで
江差である。
日本海に注ぐ天ノ川河口に近く、南北にのびる台地となおり標高159mの
夷王山(いおうざん)がある。国道228号線「道の駅もんじゅ」の手前を左折し
500mほど山の中腹まで車で登り、後は徒いて山頂まで登ることが出来る。
山頂には鳥居が置かれており、武田信広を祀る「夷王山神社」がある。
山頂から眺めると勝山館というのは、夷王山の地形を良く利用した館であ
ることが分かる。三段構えの要塞となっており、堅牢無比の山城である。
武田信広は勝山館に八幡宮を建立し、1494年に勝山館にて64歳で亡くなった。
(写真は、エゾノヨロイグサ)
2013/02/20 09:27:33
アイヌ民族の蜂起 16
ちょっと、ひとやすみ
単一民族論
「日本という国は、単一民族である」という見解を発表した大臣たちの一覧。
日本の歴史教育にアイヌ問題が触れられていないことの証であろう。
北方領土や沖縄の問題なども、歴史認識を持ってから対応に当たってもらいたいものだ。
中曽根康弘 (1986年、総理大臣在任中)
「アメリカは多民族国家だから教育が容易でなく、黒人、プエルトリコ、メキシカンなど
の知的水準がまだ高くない、日本は単一民族国家だから教育が行き届いている」と発言。
山崎拓 (1995年、元衆議院議員在任中)
「一民族、一国家、一言語の日本の国のあり方がこれほどの国力を作り上げた。
日本人が日本人を思いやる気持ちが阪神大震災の救済にも現われている」と発言。
鈴木宗男 (2001年、衆議院議員在任中)
「一国家、一言語、一民族といっていい。北海道にはアイヌ民族がおりますが、
今はまったく同化されておりますから」と発言。
平沼赳夫 (2001年、経済産業大臣在任中)
「小さな国土に、1億2600万人のレベルの高い単一民族できちんとしまっている国。
日本が世界に冠たるもの」と発言。
鳥居泰彦 (2003年、中央教育審議会会長在任中)
「日本の犯罪率が低いのは単一民族の国だからだ」という趣旨の発言。
麻生太郎 (2005年、総務大臣在任中)
「一文化、一文明、一民族、一言語の国は日本のほかにはない」
「今は(世界各地で)人種、地域、宗教でいろんな争いが起きている。日本は一国家、
一文明、一文化圏で、そういう国はあまりない」と発言。
伊吹文明 (2007、文部科学大臣在任中)
「大和民族がずっと日本の国を統治してきたのは歴史的に間違いのない事実。
極めて同質的な国」「悠久の歴史の中で、日本は日本人がずっと治めてきた」と発言。
中山成彬 (2008年、国土交通大臣在任中)
「日本は随分内向きな、単一民族といいますかね、あんまり世界と(交流が)ないので
内向きになりがち」と発言。
(写真は、レンゲショウマ)
ちょっと、ひとやすみ
単一民族論
「日本という国は、単一民族である」という見解を発表した大臣たちの一覧。
日本の歴史教育にアイヌ問題が触れられていないことの証であろう。
北方領土や沖縄の問題なども、歴史認識を持ってから対応に当たってもらいたいものだ。
中曽根康弘 (1986年、総理大臣在任中)
「アメリカは多民族国家だから教育が容易でなく、黒人、プエルトリコ、メキシカンなど
の知的水準がまだ高くない、日本は単一民族国家だから教育が行き届いている」と発言。
山崎拓 (1995年、元衆議院議員在任中)
「一民族、一国家、一言語の日本の国のあり方がこれほどの国力を作り上げた。
日本人が日本人を思いやる気持ちが阪神大震災の救済にも現われている」と発言。
鈴木宗男 (2001年、衆議院議員在任中)
「一国家、一言語、一民族といっていい。北海道にはアイヌ民族がおりますが、
今はまったく同化されておりますから」と発言。
平沼赳夫 (2001年、経済産業大臣在任中)
「小さな国土に、1億2600万人のレベルの高い単一民族できちんとしまっている国。
日本が世界に冠たるもの」と発言。
鳥居泰彦 (2003年、中央教育審議会会長在任中)
「日本の犯罪率が低いのは単一民族の国だからだ」という趣旨の発言。
麻生太郎 (2005年、総務大臣在任中)
「一文化、一文明、一民族、一言語の国は日本のほかにはない」
「今は(世界各地で)人種、地域、宗教でいろんな争いが起きている。日本は一国家、
一文明、一文化圏で、そういう国はあまりない」と発言。
伊吹文明 (2007、文部科学大臣在任中)
「大和民族がずっと日本の国を統治してきたのは歴史的に間違いのない事実。
極めて同質的な国」「悠久の歴史の中で、日本は日本人がずっと治めてきた」と発言。
中山成彬 (2008年、国土交通大臣在任中)
「日本は随分内向きな、単一民族といいますかね、あんまり世界と(交流が)ないので
内向きになりがち」と発言。
(写真は、レンゲショウマ)
2013/02/19 08:01:21
アイヌ民族の蜂起 15
コシャマイン蜂起の4
アイヌたちは、戦争というものを知らない民族であった。
武器があるわけでもないし、戦いの戦略や戦術を知る由もなかった。
自分たちが住む土地に勝手に居ついて、アイヌの弱みを突いて交易の
条件を次々と悪くしてきたことに対する不満の爆発が根底にあった。
従って、和人を懲らしめれば良い程度の気持ちがあったのであろう。
それが、百戦錬磨の戦を生きてきた武士の魂に火が付いた。
上ノ国の花沢館主<蠣崎季繁(かきざきすえしげ)>が27歳の客将武田信広を
大将として、ウスケシ(箱館)に向けて反撃にでたのである。
上ノ国の比石館、そうして松前、福島、木古内、上磯と陥落された館に反撃の
呼びかけと武器の調達をしながら陣容を整えて進んだ。
そうして、いよいよ七重浜(現北斗市)でコシャマイン軍勢と戦になった。
この戦いは、武田信広の作戦で簡単に決着がついた。和人軍が一斉に退却を
したと見せかけ、アイヌ軍団が勢いついてきた所を信広の一矢でコシャマインを
射殺し、数名をたちどころに切り倒したのである。
和人滅亡の危機を救ったということで、武田信広の名声は高まった。
花沢館主蠣崎季繁は、安東政季の娘を養女にしていたが信広にめあわせ
蠣崎家の後を継がせたのである。
アイヌと和人の戦いは、コシャマインが敗れて和人の勝利となったが、
以後100年間も続く戦いの戦端を切ることになる。コシャマイン首長クラスの人物
が登場するまでには時間がかかった。
(写真は、アイヌの靴・シカの皮靴)
コシャマイン蜂起の4
アイヌたちは、戦争というものを知らない民族であった。
武器があるわけでもないし、戦いの戦略や戦術を知る由もなかった。
自分たちが住む土地に勝手に居ついて、アイヌの弱みを突いて交易の
条件を次々と悪くしてきたことに対する不満の爆発が根底にあった。
従って、和人を懲らしめれば良い程度の気持ちがあったのであろう。
それが、百戦錬磨の戦を生きてきた武士の魂に火が付いた。
上ノ国の花沢館主<蠣崎季繁(かきざきすえしげ)>が27歳の客将武田信広を
大将として、ウスケシ(箱館)に向けて反撃にでたのである。
上ノ国の比石館、そうして松前、福島、木古内、上磯と陥落された館に反撃の
呼びかけと武器の調達をしながら陣容を整えて進んだ。
そうして、いよいよ七重浜(現北斗市)でコシャマイン軍勢と戦になった。
この戦いは、武田信広の作戦で簡単に決着がついた。和人軍が一斉に退却を
したと見せかけ、アイヌ軍団が勢いついてきた所を信広の一矢でコシャマインを
射殺し、数名をたちどころに切り倒したのである。
和人滅亡の危機を救ったということで、武田信広の名声は高まった。
花沢館主蠣崎季繁は、安東政季の娘を養女にしていたが信広にめあわせ
蠣崎家の後を継がせたのである。
アイヌと和人の戦いは、コシャマインが敗れて和人の勝利となったが、
以後100年間も続く戦いの戦端を切ることになる。コシャマイン首長クラスの人物
が登場するまでには時間がかかった。
(写真は、アイヌの靴・シカの皮靴)
2013/02/18 09:45:03
アイヌ民族の蜂起 14
コシャマイン蜂起の3
コシャマインらアイヌ軍団は志海苔舘を落とし勢いづき西へ向かった。
箱館(はこだて/函館・河野氏)、茂別館(もべつ/上磯・下国安東氏)
中野館(なかの/木古内・佐藤氏)、脇本館(わきもと/知内・南条氏)
穏内館(おんない/福島・蒋土氏) と次々と攻め、松前に入った。
覃部館(およべ/松前・今泉氏)、大館(おお/松前・下国氏、相原氏)
禰保田館(ねぼた/松前・近藤氏)、原口館(はらぐち/松前・岡辺氏)
と制覇し、更に北上し上ノ国に向かった。
比石館(ひいし/上ノ国・厚谷氏)、花沢館(はなざわ/上ノ国・蠣崎氏)
と和人の館12ヶ所を一ヶ月ほどで攻め落としたのである。
凱旋してウスケシに戻ってきたが、完全に落としきれてなかった館があった。
上磯の茂別館(下国安東氏)と上ノ国の花沢館(蠣崎氏)の2つの館だった。
上磯の茂別館は、安東盛季が最初に居住したところで、この時には
安東家四代目の政季が弟の家政に預けて蝦夷地を後にしていた。
上ノ国の花沢館は、蠣崎季繁とその客将武田信広がいた。
武田信広とは後の松前藩開祖である。
(写真は、和人からアイヌに対する交易品・盃、椀)
コシャマイン蜂起の3
コシャマインらアイヌ軍団は志海苔舘を落とし勢いづき西へ向かった。
箱館(はこだて/函館・河野氏)、茂別館(もべつ/上磯・下国安東氏)
中野館(なかの/木古内・佐藤氏)、脇本館(わきもと/知内・南条氏)
穏内館(おんない/福島・蒋土氏) と次々と攻め、松前に入った。
覃部館(およべ/松前・今泉氏)、大館(おお/松前・下国氏、相原氏)
禰保田館(ねぼた/松前・近藤氏)、原口館(はらぐち/松前・岡辺氏)
と制覇し、更に北上し上ノ国に向かった。
比石館(ひいし/上ノ国・厚谷氏)、花沢館(はなざわ/上ノ国・蠣崎氏)
と和人の館12ヶ所を一ヶ月ほどで攻め落としたのである。
凱旋してウスケシに戻ってきたが、完全に落としきれてなかった館があった。
上磯の茂別館(下国安東氏)と上ノ国の花沢館(蠣崎氏)の2つの館だった。
上磯の茂別館は、安東盛季が最初に居住したところで、この時には
安東家四代目の政季が弟の家政に預けて蝦夷地を後にしていた。
上ノ国の花沢館は、蠣崎季繁とその客将武田信広がいた。
武田信広とは後の松前藩開祖である。
(写真は、和人からアイヌに対する交易品・盃、椀)
2013/02/17 08:49:19
アイヌ民族の蜂起 13
コシャマイン蜂起の2
志海苔(シノリ)の長老は、自分では解決できないと思いウスケシ
(現在の函館で、アイヌ語の湾の端の意) のコシャマイン首長に助けを求めた。
コシャマインはアイヌだけでなく、和人や館の豪族からも一目置かれていた人物だった。
しかし、志海苔舘の小林太郎左衛門良景は
「太刀を罵倒した青年のほうこそ大罪なり」とアイヌにこそ非があると譲らない。
アイヌの不満は、いよいよ頂点に達したのである。
冬が過ぎて、又春が来た。
1457年(康正3年)5月、コシャマインがシノリ(志海苔)やウスケシ(宇須岸)の
アイヌに呼びかけて志海苔舘に攻め寄った。
アイヌが初めて和人に戦いを挑んだのである。
アイヌは元々戦など知らない
武器といっても狩猟の弓や和人から手に入れた小刀程度である。
人数はふくれあがり2-300人となり、女子供が叫びながらの攻撃であった。
志海苔舘は、城のような城壁はなく、土を盛った境界であるのと和人は商人
のようなもので人数も少なかった。
何よりも、おとなしいと思っていたアイヌ反乱の不意打ちで志海苔舘は落ちた。
コシャマインの蜂起は、これが始まりだった。
(写真は、アイヌの山刀)
コシャマイン蜂起の2
志海苔(シノリ)の長老は、自分では解決できないと思いウスケシ
(現在の函館で、アイヌ語の湾の端の意) のコシャマイン首長に助けを求めた。
コシャマインはアイヌだけでなく、和人や館の豪族からも一目置かれていた人物だった。
しかし、志海苔舘の小林太郎左衛門良景は
「太刀を罵倒した青年のほうこそ大罪なり」とアイヌにこそ非があると譲らない。
アイヌの不満は、いよいよ頂点に達したのである。
冬が過ぎて、又春が来た。
1457年(康正3年)5月、コシャマインがシノリ(志海苔)やウスケシ(宇須岸)の
アイヌに呼びかけて志海苔舘に攻め寄った。
アイヌが初めて和人に戦いを挑んだのである。
アイヌは元々戦など知らない
武器といっても狩猟の弓や和人から手に入れた小刀程度である。
人数はふくれあがり2-300人となり、女子供が叫びながらの攻撃であった。
志海苔舘は、城のような城壁はなく、土を盛った境界であるのと和人は商人
のようなもので人数も少なかった。
何よりも、おとなしいと思っていたアイヌ反乱の不意打ちで志海苔舘は落ちた。
コシャマインの蜂起は、これが始まりだった。
(写真は、アイヌの山刀)
2013/02/16 09:41:20
アイヌ民族の蜂起 12
コシャマイン蜂起の1
志海苔館(シノリ)の主は小林太郎左衛門良景という豪族であった。
刺殺されたアイヌ青年の部落長老が鍛冶屋村を訪ねるが、村の衆は入れ
ようとしなかった。仕方なく長老は小林太郎左衛門良景に談判に行った。
アイヌのしきたりには、罪を犯した者には「償い」という掟があった。
「償い」の大きさは長老たちの裁決で決まり、本人の財産を支払うことで
あった。鍛冶屋に「償い」をしてほしいと頼んだ。
それで、アイヌは一件を丸く収めようとしたのである。
しかし、「悪いのは鍛冶屋にケチをつけたアイヌの青年の方だ」
「あまりしつこいとアイヌは鍛冶屋村に出入り禁止にする」といい放った。
ここまでくる背景には、安東一族が蝦夷地に入り込んできてからの交易
の問題が出ていた。和人のアイヌに対する取引が、序々に高飛車になり、
弱みに付け込んで横暴になってきていた。
鍛冶屋村に入れさせないということは、鉄製品やアイヌ交易を止めるとい
うことに等しかったのである。更に言えば、和人のエリアを決めてそこから
アイヌを追い出そうということでもあった。
(写真は、アイヌの武器である弓と矢)
コシャマイン蜂起の1
志海苔館(シノリ)の主は小林太郎左衛門良景という豪族であった。
刺殺されたアイヌ青年の部落長老が鍛冶屋村を訪ねるが、村の衆は入れ
ようとしなかった。仕方なく長老は小林太郎左衛門良景に談判に行った。
アイヌのしきたりには、罪を犯した者には「償い」という掟があった。
「償い」の大きさは長老たちの裁決で決まり、本人の財産を支払うことで
あった。鍛冶屋に「償い」をしてほしいと頼んだ。
それで、アイヌは一件を丸く収めようとしたのである。
しかし、「悪いのは鍛冶屋にケチをつけたアイヌの青年の方だ」
「あまりしつこいとアイヌは鍛冶屋村に出入り禁止にする」といい放った。
ここまでくる背景には、安東一族が蝦夷地に入り込んできてからの交易
の問題が出ていた。和人のアイヌに対する取引が、序々に高飛車になり、
弱みに付け込んで横暴になってきていた。
鍛冶屋村に入れさせないということは、鉄製品やアイヌ交易を止めるとい
うことに等しかったのである。更に言えば、和人のエリアを決めてそこから
アイヌを追い出そうということでもあった。
(写真は、アイヌの武器である弓と矢)
2013/02/15 09:32:05
アイヌ民族の蜂起 11
マキリ(小刀)
1456年の春のことだった。
函館の東、今の函館飛行場のあたりに流れる志海苔川では
良質な砂鉄が取れるので鍛冶屋村ができていた。
アイヌたちは、鉄を作る技術はなかったので和人が作る鉄製品
は交易の品として高級品であった。
この鍛冶屋村に一人のアイヌ青年がやってきた。
冬眠から覚めた熊を初めて一人で仕留めたということで、コタンの
長老からマキリ(小刀)を持つことを許されたという。
一軒の鍛冶屋に入りマキリを注文し、代金として熊肉を置いて行った。
それから暫く経った日、もうできたころと思いマキリを受け取りに来た。
値段のことで言い争いが始まった。
アイヌ青年 「それは高いよ」
鍛冶屋 「こんな熊肉で、安すぎる」
アイヌ青年 「それじゃ、話が違う」
鍛冶屋 「俺が作る上出来なマキリは、熊肉程度では足りない」
アイヌ青年 「お前のこんな粗末なマキリでは、俺の腹も刺せまい」
鍛冶屋 「なに!それでは、試してやろうじゃないか」
この時には、すでに騒ぎを聞きつけて群集ができていた。
青年は刺し殺され、それを和人とアイヌが見ていた。
これが、アイヌ民族蜂起の発端であった。
しかし、実際に蜂起するのは一年後である。
この事件の落とし前にあたって、アイヌの長老は我慢に我慢を重ねて和人と交渉する。
安東一族が、道南一帯に館を構えてアイヌたちの生活を圧迫していたことが背景にあった。
マキリ(小刀)
1456年の春のことだった。
函館の東、今の函館飛行場のあたりに流れる志海苔川では
良質な砂鉄が取れるので鍛冶屋村ができていた。
アイヌたちは、鉄を作る技術はなかったので和人が作る鉄製品
は交易の品として高級品であった。
この鍛冶屋村に一人のアイヌ青年がやってきた。
冬眠から覚めた熊を初めて一人で仕留めたということで、コタンの
長老からマキリ(小刀)を持つことを許されたという。
一軒の鍛冶屋に入りマキリを注文し、代金として熊肉を置いて行った。
それから暫く経った日、もうできたころと思いマキリを受け取りに来た。
値段のことで言い争いが始まった。
アイヌ青年 「それは高いよ」
鍛冶屋 「こんな熊肉で、安すぎる」
アイヌ青年 「それじゃ、話が違う」
鍛冶屋 「俺が作る上出来なマキリは、熊肉程度では足りない」
アイヌ青年 「お前のこんな粗末なマキリでは、俺の腹も刺せまい」
鍛冶屋 「なに!それでは、試してやろうじゃないか」
この時には、すでに騒ぎを聞きつけて群集ができていた。
青年は刺し殺され、それを和人とアイヌが見ていた。
これが、アイヌ民族蜂起の発端であった。
しかし、実際に蜂起するのは一年後である。
この事件の落とし前にあたって、アイヌの長老は我慢に我慢を重ねて和人と交渉する。
安東一族が、道南一帯に館を構えてアイヌたちの生活を圧迫していたことが背景にあった。
2013/02/14 09:32:23
アイヌ民族の蜂起 10
刺殺事件
アイヌ民族と和人(日本人)との戦いで大規模なものは3回あった。
第一回目は1456年のことで、戦いの発端は鍛冶屋がアイヌ青年を
刺殺したことだった。応仁の乱のまだ前の話である。
日本史の教科書に太田道灌があるが「コシャマインの戦い」は出てこない。
司馬遼太郎がこのアイヌ青年の死に対する和人の態度に対して
次のように書いている。
「この鍛冶のいやらしさに、当時からこんにちにいたる
和人というものの象徴を見る印象がある」
しかし、和人であるいやらしさはこれが始まりで333年に渡って続き、
更に今日にまで引き継がれているのである。
福島の原発に対する東京電力の対応は、アイヌ青年に対する和人の
態度とダブってくる。更に、子供のイジメや暴力が問題となっているが、
本来日本人が持っている性格の原点を見る思いでもある。
明日から、コシャマインの戦いが何故起きたのかを掲載していきたい。
(写真は、北海道の花のエゾカンゾウ)
刺殺事件
アイヌ民族と和人(日本人)との戦いで大規模なものは3回あった。
第一回目は1456年のことで、戦いの発端は鍛冶屋がアイヌ青年を
刺殺したことだった。応仁の乱のまだ前の話である。
日本史の教科書に太田道灌があるが「コシャマインの戦い」は出てこない。
司馬遼太郎がこのアイヌ青年の死に対する和人の態度に対して
次のように書いている。
「この鍛冶のいやらしさに、当時からこんにちにいたる
和人というものの象徴を見る印象がある」
しかし、和人であるいやらしさはこれが始まりで333年に渡って続き、
更に今日にまで引き継がれているのである。
福島の原発に対する東京電力の対応は、アイヌ青年に対する和人の
態度とダブってくる。更に、子供のイジメや暴力が問題となっているが、
本来日本人が持っている性格の原点を見る思いでもある。
明日から、コシャマインの戦いが何故起きたのかを掲載していきたい。
(写真は、北海道の花のエゾカンゾウ)
2013/02/13 07:24:27
アイヌ民族の蜂起 9
志海苔館(シノリダテ)
蝦夷の特産物として、宇賀の昆布・鮭が挙げられる。
宇賀昆布とは、いまの函館市銭亀沢で、のちに志海苔昆布として
知られるようになった。
交易は、館主が主体となって独占し、アイヌとの間では物々交換
が主であったが、本土商人との間では通貨が使われていた。
昭和の時代に志海苔館付近からは大量の古銭が出土し、箱館地
方の経済活動を知る貴重な史料となっている。
また、この志海苔地区では良質な砂鉄が取れていた。
鍛冶屋が津軽や南部から移り鍛冶屋村をつくり、その数は 100戸を
数える和人が進出していた。
この志海苔を仕切る館の主が、小林太郎左衛門良景という豪族で
あった。
康正2年(1456)、この志海苔の鍛冶屋村でアイヌの青年が殺される
事件が起きたのである。
(写真は、アイヌの交易製品・昆布)
志海苔館(シノリダテ)
蝦夷の特産物として、宇賀の昆布・鮭が挙げられる。
宇賀昆布とは、いまの函館市銭亀沢で、のちに志海苔昆布として
知られるようになった。
交易は、館主が主体となって独占し、アイヌとの間では物々交換
が主であったが、本土商人との間では通貨が使われていた。
昭和の時代に志海苔館付近からは大量の古銭が出土し、箱館地
方の経済活動を知る貴重な史料となっている。
また、この志海苔地区では良質な砂鉄が取れていた。
鍛冶屋が津軽や南部から移り鍛冶屋村をつくり、その数は 100戸を
数える和人が進出していた。
この志海苔を仕切る館の主が、小林太郎左衛門良景という豪族で
あった。
康正2年(1456)、この志海苔の鍛冶屋村でアイヌの青年が殺される
事件が起きたのである。
(写真は、アイヌの交易製品・昆布)