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 8 12

アイヌ民族の蜂起 8
 12の舘

  安東盛季が領主として松前に上陸し、茂別(現在の上磯)に館を築き居住した。
わずか2年で生を終えるが、子の康季、康季嫡子の義季、養子の政季と安東家を
継いで行く。
この間に、津軽に渡り祖地の奮還を計るがことごとく返り討ちにあい悲願は達せら
れることはなかった。しかし、安東氏の勢力は渡島半島沿岸にできていた。


 現在の函館空港があるあたりから、日本海の上ノ国に至る沿岸に添って12の舘
が作られていた。

 志海苔館(函館市志海苔町)、中野館(木古内町中野)、
 脇本館(知内町涌元)、 穏内(おんない)館(福島町吉岡)、
 覃部(およべ)館(松前町東山)、禰保田(ねぼた)館(松前町館浜)、
 原口館(松前町原口)、比石(ひいし)館(上ノ国町石崎)
                              等が点在していた。

 
 先住人は漁労・狩猟民族であるアイヌと、これに雑居する和人であった。
和人は前述した奥州の残党・京からの流刑人である。
彼らは、いずれもアイヌと同じく原始的な漁労や狩猟を主とし、またはそれらの交易
をもって生きる術を得ていた。
 交易には、ともすれば略奪的となる危険性は充分に考えられることであった。
 

(写真は、発掘された函館付近にあった志海苔舘)
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 7 

アイヌ民族の蜂起 7
 安東氏の策略

  安東一族の蝦夷地上陸は、
それまでの残党・流刑人たちとは違っていた。
鎌倉以来二百年余の父祖の地を奪われての逃避である。
 4代目安東盛季は奥州奪回のための蝦夷でしかなかった。

 さいわい蝦夷地と京都と結んで産物の流通を海運で行っていたために、
蝦夷地の産物が京では言い値で売れることを知っていたのである。
 戦のための武器や人の確保のために資金を集める企てを考えた。

 アイヌ民族は、それまで誰の支配も受けることなく津軽や奥蝦夷などに
も自由に行き来し、熊や鹿の皮・鮭などの海山物を和人の米や鉄製品と
交換していた。
 
(写真は、和人との交易の製品・鹿皮)

 6 1443

アイヌ民族の蜂起 6
 嘉吉三年(1443)

  津軽は安東一族にとって、鎌倉以来二百年余の父祖の地であった。
十三湊(とさみなと)は岩木川の下流十三潟口に位する湊で、津軽の産物を
はじめ蝦夷地の産物もここに集まるところから、諸国の船もここに来て交易した。

 そのため安東氏は「関東御免」の交易船を、同じ得宗領である若狭の小浜湊
との間に運航させ、京都と結んで文物を交流し、その勢力を陸奥湾沿岸から
蝦夷島沿岸にまで及ぼしたのである。
 
 南北朝時代には、東の南部氏と奥羽地方を二分する勢力であったが、
十三湊に移って4代目の盛季の時に至り、南部義政との戦いに破れ、ついに
安東一族は家臣とともに十三湊を捨てて蝦夷島に逃れたのである。

 時は、嘉吉三年(1443)室町幕府8代将軍足利義政、銀閣に代表される
「東山文化」のころである。
 
(写真は、北海道最南端白神岬付近の国道228号・津軽と蝦夷最短の場所)

 5 

アイヌ民族の蜂起 5
 津軽の安東一族
 

 文治5(1189)年平泉の藤原氏が滅亡すると、奥州一円は鎌倉幕府の
治下に属して分轄統治されていたが、津軽および南部の北端は漁猟を
主とする蝦夷によって占拠されていたため「東夷の酋長」をもって自任す
る安東氏によって統治されていた。

 
 時代は代わり、安東一族は北条義時から蝦夷の代官に任ぜられ、奥羽
ならびに渡島の蝦夷を管轄し、その守護にあたるとともに、貢税の徴収と
反乱にそなえた。
安東一族は、陸奥津軽十三湊に移り、蝦夷地との交易を中心とした海上交通
に従事する海の豪族となり、安東盛季に至る4代の間ここを本拠地としていた。

 十三湊とは、現在日本海にあるシジミの産地
 
(写真は、安東氏の本拠地の地図・十三湊)

 4 

アイヌ民族の蜂起 4
 京の流刑人たち
 

 津軽半島の龍飛岬から、渡島半島の白神岬までは19.2キロである。
鎌倉や京の中央政権から遠い奥東北や北海道は蝦夷と呼ばれていた。
 ましてや、津軽海峡を越えると支配は全く及ばないところであった。

  この海峡を第一陣の27年後、1216年(建保4年)に第二陣が渡った。
京の流刑人たちである。時代は鎌倉幕府の第2代執権、北条義時である。
 (義時は北条政子の弟)
 京都にはびこる強盗や盗賊を捕まえたが、そのうちの50人ほどを蝦夷に
送った。この後、数年に渡って蝦夷への流刑が続けられた。


 アイヌたちは、恐れる素振りも見せず迎え入れた。
そうして、蝦夷地に渡った者はアイヌ民族と一緒に暮らすようになった。
奥州藤原の残党と流刑人たちは、先住する人を支配しようとする意図など
まったくなく、多くの者はアイヌに深い恩を感じていたのである。
 虚勢や権力を見せたとしても、人数も少なく、生活の糧を得るにはアイヌ
に教わらなければ生きていけなかった。
 生活のために京や津軽から取り寄せた米、絹、鉄製品などをアイヌにも
惜しみなく分け与えていた。
 この生活が、第三陣の軍団によって一変してしまう。


(写真は、エゾニュー)

 3 

アイヌ民族の蜂起 3
   親しい隣人のはじまり
 

      蝦夷地に住んでいたアイヌの人達は、
   津軽海峡を渡ってきた和人を「シャモ」と呼んでいた。
   シャモとはアイヌ語で「親しい隣人」という意味を持つ。
   和人(日本人)とアイヌ民族とは、お互いに人として良好であった。
   いつのころから、この関係が崩れてしまったのか。

  和人の集団が最初に蝦夷に入ったのは文治5年(1189年)という。
 源義経は平氏滅亡後、平泉へ逃れて奥州藤原秀衡に庇護されていた。
 文治4年(1188年)、頼朝は泰衡と基成に義経追討を要請する。
  しかし、泰衡は部下に裏切られ藤原氏の栄華はあっけなく幕を閉じた


     その藤原泰衡(やすひら)の残党が海を渡った。
   これが、シャモの第一陣であった。
    北海道には義経伝説が100を越える。
  日本海を北上して稚内から樺太に渡りジンギスカンになったという
  伝説まで生まれている。
  義経伝説の中にはアイヌ娘との恋心を軸に伝承されているものもあり
  アイヌ民族との交流はお互いにうまくいっていたのではないかと思える。
 

   (写真は、北海道最南端白神岬から竜飛岬まで19.2キロ)

 2 

アイヌ民族の蜂起 2
 コロポックルの意味

 コロポックルは、次のように置き換えると歴史がつながってくる。

     コロポックル=アイヌ人  アイヌ=和人(日本人)
  
 文面は「ウィキベディア」から

 アイヌ(日本人)がこの土地に住み始める前から、
この土地にはコロポックル(アイヌ人)という種族が住んでいた。
彼らは背丈が低く、動きがすばやく、漁に巧みであった。
又屋根をフキの葉で葺いた竪穴にすんでいた。

 彼らは情け深くアイヌ(日本人)に友好的で、鹿や魚などの獲物をアイヌ(日本人)
の人々に贈ったりアイヌ(日本人)の人々と物品の交換をしたりしていたが、
姿を見せることを極端に嫌っており、
それらのやりとりは夜に窓などからこっそり差し入れるという形態であった。

 あるとき、あるアイヌ(日本人)の若者がコロポックル(アイヌ人)の姿を見ようと
贈り物を差し入れるのを待ち伏せ、その手をつかんで屋内に引き入れてみたところ、
美しい婦人のなりをしておりその手の甲には刺青があったという。

 コロポックル(アイヌ人)は青年の無礼に激怒し、一族を挙げて北の海の彼方へと
去ってしまい、以降アイヌ(日本人)の人々はコロボックル(アイヌ人)の姿を見ることはなくなった。

かつて昔、蝦夷地といわれるエリアは広く、津軽から北海道・千島・樺太までを含まれていた。
そうして、先住人としてアイヌの人達が暮らしていた。
 
(写真は、ノハナショウブ)

 1 

 アイヌ民族の蜂起 1
 コロポックル伝説


 コロポックルとはアイヌ民族の伝承で、蕗(フキ)の葉の下に住む種族の話である。
17世紀の初めに、この伝承を書き留めたのは和人(日本人)ではなくオランダ人
あった


概要は

「ふきの葉の下に住む小さな人が、貧しい人にこっそりと食べ物を運んでいたところ
正体を暴かれたので、蝦夷の島を見捨てて、海を越えて遠い島へ行ってしまった」

                                 ということである。
 

 アイヌの人達に語り継がれ、地域によって内容に多少の違いがある。
17世紀にこの伝承があったとすれば、それ以前にこれにまつわる歴史があったと
いうことである。

   語り継がれている民話や童話も同じようなことが言えるが、
   最初に語られた内容は恐ろしく鬼気迫るものであることが多い。
   コロポックルもまさに民族の悲しくやり場のない伝承である。
 
(写真は、十勝の足寄町螺湾地区・草丈2~3m、茎の直径が10cmにもなる)

 

 
アイヌ民族の蜂起

 
今年もまた2月7日が来る。

2月7日を「北方領土の日」と決めたのは昭和56年のことで閣議了解だった。

何故2月7日なのかといえば
1855年(安政元年)に「日魯通好条約」が下田で調印された日であるからだ。
 
 「十勝国」を掲載しているが、
この機会に「アイヌ民族の蜂起」と題して平行して連載をしていきたい。

2008年8月7日。 日本の一番東にある根室から出発します!
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上家二三夫
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