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    <西南戦争と屯田兵>
 
   
  西南戦争が勃発した明治10年2月、屯田事務局は黒田開拓長官の命令で、
 屯田兵小隊を函館港に派遣した。第一中隊の安田安中尉が30名の部下とともに出動
 し、約1カ月間船舶を監視する任務に就いた。反乱の拡大がないと見極めが
 着いた3月下旬に引き揚げた。
 
       
 4月10日黒田長官は屯田兵第一大隊、つまりは屯田兵全部隊に出征を命じた
 屯田兵は小樽港から出向し、熊本県の百貫に着き、小島町に宿営した。
 27日に別働第二旅団に所属することが決まり、鎮台兵一中隊と狙撃兵若干
 が配属された。以後、屯田兵は八代から人吉への進撃に加わって、交戦を
 重ねた。屯田兵の下士兵卒には東北諸藩の士族出身が多かったので、戊辰
 戦争の敵だった鹿児島県士族を相手とするこの戦争に奮い立った。
 しかし、将校の地位を占めた鹿児島県出身者には戦意が乏しく、8月2日の
 一瀬川の戦いを観戦したある官軍将校は、屯田部隊で「戦争をしている
 のは下士兵卒で将校ではない」と評したという。戦争の終わりが見える
 と8月16日に帰郷命令を受けた。      
 戦争中、屯田兵は戦死7人、戦病死20人、負傷20人の損害を出した。
 屯田兵は都ノ城、神戸、東京を経由して9月30日に札幌に戻った。
 途中、9月3日に屯田予備兵とともに明治天皇の観閲を受け、慰労の言葉を
 賜った。戦後の論功行賞は、非難の的だった鹿児島出身将校に厚く勇
 戦した他藩出身者に薄かったため、1人の将校が抗議の切腹をした。
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2008年8月7日。 日本の一番東にある根室から出発します!
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上家二三夫
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