2011/09/18 00:05:54
明治9年 <開拓使麦酒酒造所開業>
ロシアの南下政策への対抗策として明治2年に設置された開拓使は、殖産興業
に燃える新政府の切り札として大いに期待され、外国人技師の招へいが行われて
「開拓使麦酒醸造所」を含む30種以上の官営工場が開設されました。
輸入品の「舶来ビール」や横浜の外国人技師が作る「居留地ビール」が発信源と
なって次第に認知度が高まっていたビールは新時代を象徴する飲み物で、国内消
費や輸出向けの有望なマーケットが誕生する可能性を秘めていました。
そうしたことから、ホップが自生する土地で、ビール大麦の栽培にも適しており
原料の自給自足が可能なこと、低温で発酵させるための氷が入手しやすいことな
ど、気候風土がビールづくりに適している北海道に、政府の勧農・殖産興業政策
に合致するビール醸造事業が導入されることになりました。
開拓使麦酒醸造所によるビールづくりは明治9年に醸造所の建設から始まり、
明治10年夏には、本場ドイツで修業した日本人初のブラウマイスター中川清兵衛
によって仕込まれた第1号商品冷製「札幌ビール」が、サッポロビールのトレード
マークである「五稜星」★が描かれた開拓使旗 (北辰旗) を立てた船艦によって
東京へと運ばれました。
開拓使ビールの発売からほぼ10年後、数知れないほどの困難を乗り越えた先駆者
たちの努力によって国産ビールの総生産量はついに舶来ビールの輸入量を上回ります。
その後、開拓使麦酒醸造所は渋沢栄一らが経営に参画し、民間会社の「札幌麦酒会社」
として新たなスタートを切ります。
ロシアの南下政策への対抗策として明治2年に設置された開拓使は、殖産興業
に燃える新政府の切り札として大いに期待され、外国人技師の招へいが行われて
「開拓使麦酒醸造所」を含む30種以上の官営工場が開設されました。
輸入品の「舶来ビール」や横浜の外国人技師が作る「居留地ビール」が発信源と
なって次第に認知度が高まっていたビールは新時代を象徴する飲み物で、国内消
費や輸出向けの有望なマーケットが誕生する可能性を秘めていました。
そうしたことから、ホップが自生する土地で、ビール大麦の栽培にも適しており
原料の自給自足が可能なこと、低温で発酵させるための氷が入手しやすいことな
ど、気候風土がビールづくりに適している北海道に、政府の勧農・殖産興業政策
に合致するビール醸造事業が導入されることになりました。
開拓使麦酒醸造所によるビールづくりは明治9年に醸造所の建設から始まり、
明治10年夏には、本場ドイツで修業した日本人初のブラウマイスター中川清兵衛
によって仕込まれた第1号商品冷製「札幌ビール」が、サッポロビールのトレード
マークである「五稜星」★が描かれた開拓使旗 (北辰旗) を立てた船艦によって
東京へと運ばれました。
開拓使ビールの発売からほぼ10年後、数知れないほどの困難を乗り越えた先駆者
たちの努力によって国産ビールの総生産量はついに舶来ビールの輸入量を上回ります。
その後、開拓使麦酒醸造所は渋沢栄一らが経営に参画し、民間会社の「札幌麦酒会社」
として新たなスタートを切ります。
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