駅逓所(えきていしょ)は、北海道にまだあまり人が住んでいない時代に、開拓のために
北海道にやってくる人や、旅をしている人に宿泊所として、または人や馬を貸し出しをして
いたところで、北海道独特の制度でした。さらに、郵便の仕事も取り扱っていました。
まだ北海道が蝦夷といわれていた江戸時代にも、通行屋(つうこうや)という制度がありました。
これは幕府が本州から連れてきた馬を用意して、その運営をまかせ、人やものを運ん
だり、馬を提供、宿泊施設として利用させたものです。ただ、それも明治維新によって
廃止されます。
しかし、北海道の開拓のために必要とされたので、開拓使が規則を整備して、重要な
道路に多くの駅逓所を設置しました。
運営には半官半民の請負制がとられ、その運営者は取扱人(とりあつかいにん)と
呼ばれました。もちろんこれはだれがやってもいいというものではなく、財産などの条件
がありましたが、土地、建物、馬があたえられるなどの特典もありましたので、希望者
も少なくなかったようです。
駅逓所は、開拓使が廃止されるまでには111箇所作られています。
それも、開拓が各地に広がっていくにしたがって増えていき、それから30年ほど
後には、全部で238駅、配置されていた馬の数は2835頭にもなりました。
代表的なものは、恵庭市にあった島松駅逓所です。
島松駅逓所は明治6年、札幌本道(現在の国道36号)の開通に伴い設置されたもので、
明治17年からは市内の島松に入植し、寒地稲作の父とうたわれた中山久蔵が経営に
あたっていました。
この駅逓所は、クラーク博士が帰国の途中に立ち寄り「青年よ大志をいだけ」という名言
の舞台となり、また、明治14年には明治天皇本道ご巡幸の際の行在所ともなりました。
昭和59年国史跡に指定され、当時の駅逓の構造を残す建築物としては道内最古のも
のです。
交通の面からだけでなく、北海道開拓に大きな役割を果たしましたが、その性格上開拓
の完了、鉄道の開通などによって役目を終え廃止になっているものも多くあります。
1948年には制度自体が廃止になりました。
建物を復元または現存
奥行臼駅逓所 <別海町>
上藻別駅逓所 <紋別市>
島松駅逓所 <北広島市>
ソーケシュオマベツ駅逓所 <喜茂別町>
(北海道開拓の村に復元)
忠別太駅逓所 <旭川市>
本願寺駅逓所 <沼田町>