- 2025/03/13 [PR]
- 2012/10/10 北海道人 11 松前藩の刺客
- 2012/10/09 北海道人 10 (三航蝦夷日誌)
- 2012/10/08 北海道人 9 (再航蝦夷日誌)
- 2012/10/07 北海道人 8 (松前藩に納めていた税金(運上金))
- 2012/10/06 北海道人 7 (初航蝦夷日誌)
- 2012/10/05 北海道人 6 (西と東蝦夷地)
- 2012/10/04 北海道人 5 (探検の目的)
- 2012/10/03 北海道人 4 (蝦夷地探検3回は自費)
- 2012/10/02 北海道人 3 (蝦夷地探検6回)
- 2012/10/01 北海道人 2 (伊勢の国生まれ)
2012/10/08 08:46:56
北海道人 9
「北海道人」とは、幕末の探検家松浦武四郎の雅号である。
1846年2度目の蝦夷地探検である。
37年前の文化6年(1809)に間宮林蔵が探検したカラフト島を目指す。
(当時カラフトは北蝦夷地と言われていた)
しかし、渡るには松前藩の許可が必要で松前藩医師の下僕として
立つこととなった。
4月10日、江差から熊石,瀬棚を過ぎて山間に入る。
数日後にイシカリ場所に到着。
ソウヤに着いたのは江差から一ヶ月余り。
海上18里にカナフトである。
「再航蝦夷日誌」に詳しい。
カラフトの調査の帰りに、宗谷~知床間のオホーツク海岸を調査し、
再度宗谷に戻り陸路をイシカリに行き、イシカリ川をチトセに出て、
勇払をまわって9月初めに江差に帰った。
(写真は道北美深町にある松浦武四郎の碑)
2012/10/07 09:29:42
北海道人 8
「北海道人」とは、幕末の探検家松浦武四郎の雅号である。
各場所の商人が松前藩に納めていた税金(運上金)はどれくらいだったのか。 これらを武四郎は「初航蝦夷日誌」に記録してる。
1845年の税金で東蝦夷の一部だけ。
・ ユウフツ(勇払) 250両 松前 山田屋文右衛門
・ シャマニ(様似) 1048両 松前 万屋仙左衛門
・ ホロイズミ(幌泉) 808両 箱館 福島屋嘉平
・ クスリ(釧路) 5060両 松前 米屋勝三郎
・ アッケシ(厚岸) 600両 松前 山田屋文右衛門
武四郎は、地形の探検だけではなく蝦夷地における
松前藩の現状視察もおこなっていた。
(写真は、幕府三官寺の一つ厚岸の国泰寺)
2012/10/05 08:04:46
北海道人 6
「北海道人」とは、幕末の探検家松浦武四郎の雅号である。
1845年、松前・江差の商人斎藤佐八郎の持ち船に乗せてもらって
鯵ケ沢から松前に渡った。
蝦夷地は一時幕府直轄地であったが当時は松前藩に戻っていた。
(この時の松前城にはまだ天守閣はない)
武四郎は西蝦夷地に向けて日本海を北上する。
上ノ国から江差に入り、熊石と向かうが関所が置かれていた。
ここは強引に押し通ったが、瀬棚でも通行を禁じられやむなく引き返すことになる。
江戸者を極度に警戒していた為に、斎藤佐八郎に頼んで江差の人別帳に登録を
してもらうことになる。今度は箱館から東蝦夷地に向けて出発した。
(写真は津軽半島の龍飛岬と渡島半島最南端白神岬、最短19.2km)
2012/10/01 09:32:45
北海道人 2
「北海道人」とは、幕末の探検家松浦武四郎の雅号である。
松浦武四郎は文政元年(1818)伊勢の国、
現在の三重県(津市と松坂市の中間)の生まれ。
お伊勢参りの参宮街道筋であったことが旅に強い関心を
持ったと思える。
北は東北、南は九州から言葉もまちまちな人の群れを見ている
うちに旅に出たいと思う環境があったのではないか。
事実、郷士の四男で末っ子だったこともあり、16歳で実家をあと
に江戸へ出るのだがその後21歳長崎に入るまで日本をよく歩いた
ものだと思う。
長崎で6年過ごし朝鮮に渡ろうとしていたが、蝦夷地の形勢と
北方探査の緊急性を聞き北に向かうことになった。
(写真は、松前小島の隣に見える渡島大島無人島)