小樽駅周辺
現在の小樽駅は、小樽港内手宮駅に通ずる
幌内鉄道の沿線にあった一駅ではない。
その後、函館と小樽との間に敷設された北海道鉄道の終着駅として誕生したものであった。
開拓使によって敷設され民間に払い下げられた幌内鉄道は、
明治22年に薩摩出身の堀基を中心に本州資本をもって設立された北海道炭礦鉄道会社
の経営下に入っていった。
それから10年、民間において「函館―小樽間の鉄道の実現」を要望する声が高まった。
そうした世論を背景として、渋沢栄一や北垣国道らの尽力と苦労の末に、
同32年10月に開かれた会社創業総会において、北海道鉄道株式会社が設立されることとなった。
経済界の不況及び企業としての収益採算に疑問を抱き投資を渋る者も多く、
資金難に遭遇しながらも、やっと政府の補助金を獲得できる目処がついて、
同34年に鉄路の敷設に着工することができたのであった。
これには、日露両国間の情勢の険悪化が微妙に作用していた。
時の陸軍大臣は、閣議において「北海道鉄道の軍事上の必要性」を強調し、
「旭川の兵鎮と函館要塞とを連絡して動員および兵站輸送とを自由にする」ことを力説したのであった。
参謀本部からも鉄道速成の要求が出されていて、補助金の下付に際しては「着工後3年以内の竣工」
が条件としてつけられていた。
しかし、補助金は鉄道建設費の一割にも満たず、財源としては、
株金や社債借入金に期待せざるを得なかった。
株主は、東京、京都、大阪、愛知などに在住した北海道に関係する会社の役員や大工地所有の
華族たちが大部分であった。
道内資本は全体の約八分の一に過ぎなかったし、一人平均の持株数も少なかったが、
道内資本の皆無に等しかった炭礦鉄道とは際立った対照を示していた。
小樽から資本参加した者には「小豆将軍」と称された高橋直治や船主同盟会の中堅であった
金子元三郎などがいた。