二風谷ダム 8
被告である北海道収用委員会と事業主体である国は
控訴を行わず、判決は確定する。
この判決はアイヌ民族を先住民族として認めた画期的なものであり、
7月には政府が差別的法律として悪名高かった北海道旧土人保護法
を廃止し、アイヌ文化保護を目的としたアイヌ文化振興法が成立。
アイヌ民族長年の悲願が実現した。
同時にアイヌ文化振興・研究機構が発足し、萱野が1991年(平成3年)
に立てた二風谷アイヌ文化博物館を水源地域対策特別措置法の
国庫補助対象としてアイヌ文化・アイヌ語伝承や文化財保護の拠点として拡充させた。
建設省はさらにアイヌ関係者との間で既に合意していたチプサンケの代替地を8月に
完成させ、これと連動する形で二風谷湖水祭りが同時開催されてアイヌ文化に触れ
合う機会を整備した。
二風谷ダム 7
裁判には事業主体である国も補助参加しているが、アイヌ民族を先住
民族とするかどうかの認否はこの裁判では不要であると主張した。
ダム自体は本体工事に着手していたが建設省は萱野らアイヌ関係者の
意見を容れて1996年(平成8年)にはダムに試験的に貯水を行って異常
が無いか確認する試験湛水(たんすい)終了後、全ての貯水を放流する
という異例の操作を行い、アイヌの伝統行事であるチプサンケを湖底で執
り行うようにした。
翌1997年(平成9年)に二風谷ダムの建設は完了し二風谷地区は水没し
たが裁判は継続され、同年3月27日に二風谷ダム建設の是非について札幌地裁は判決を下した。
この中で札幌地裁は土地の権利取得裁決の取消しなどを求めた原告側の訴えをいずれも棄却
したが、「工事のための土地取得などはアイヌ民族の文化保護などをなおざりにして収用を行っ
たことにより、土地収用法第20条3号の裁量権を逸脱している」として収用は違法である判断した。
その上で既にされた収用裁決を取り消すことが「公の利益に著しい障害を生じる」として判決には違法を明記するものの、原告の請求を棄却した。
「「(事情判決(行政事件訴訟法31条1項)また、アイヌ民族を国の機関としては初めて先住民族として認めた。基本的には原告敗訴であるが裁判費用は国と北海道収用委員会が負担することとなった。
二風谷ダム 6
アイヌ関係者のうち萱野茂と貝沢正の両名はアイヌ文化を守るため
頑強にダム建設に反対。
所有する土地に対する補償交渉に一切応じず補償金の受け取りも
拒否した。
このため北海道開発局は両名への説得を断念し土地収用法に基づき
1987年(昭和62年)に強制収用に着手した。
これに対し両名は強制収用を不服として1989年(平成元年)に収用差
し止めを事業者である建設大臣に求めたが1993年(平成5年)4月に
これは棄却された。
請求棄却に反発した両名は翌月土地収用を行う北海道収用委員会を相手
に札幌地方裁判所へ行政訴訟を起こした。
いわゆる「二風谷ダム建設差し止め訴訟」である。
両名とその弁護団はダム建設の差し止めを求めたが、真の目的はアイヌ民族の現状
を広く一般に認知させ、アイヌ文化を国家が保護・育成させることであった。
この間萱野は日本社会党の参議院議員([比例代表区]])として国政にも参与している。
二風谷ダム 5
しかし、ダムが建設される二風谷地区は、
アイヌ民族にとって「聖地」とされてきた。
チプサンケと呼ばれるサケ捕獲のための舟下ろし儀式を始めとして
当地はアイヌ文化が伝承される重要な土地であった。
このため計画発表と同時に地元のみならず道内のアイヌから強い
反対運動が起こった。
水没戸数は9戸と少なかったが水没農地が水没面積の半分を占め、
うち競走馬の牧場が二箇所あったことも補償交渉を長期化させた。
水没予定地の関係者に対する補償交渉は9年を費やし、
1984年(昭和59年)には補償交渉が妥結。
平取町もダム建設に同意し翌1985年(昭和59年)には水源地域対策特別措置法の
対象ダムに指定されて生活再建への国庫補助などが行われた。
二風谷ダム 4
北海道開発局は水源を日高地方の河川に求めたが、
鵡川はダム計画が放棄され建設は不可能、
新冠川は北海道電力によって新冠ダムが既に建設中、
静内川は北海道と北海道電力の共同事業による高見ダムが
計画されており、残った沙流川に開発の手を伸ばすことになった。
1973年(昭和48年)、北海道開発局は沙流川の本流と支流の
額平川(ぬかびらがわ)に二基の多目的ダムを建設して、
沙流川の治水と流域町村および苫小牧東部工業地帯への利水、
そして日高電源一貫開発計画の一翼を担う水力発電を目的に
「沙流川総合開発事業」を発表。
二風谷ダム(沙流川)と平取ダム(額平川。後述)の二ダム一事業として計画をスタートさせた。
二風谷ダム 3
北海道電力は
沙流川を始め静内川・新冠川(にいかっぷがわ)・鵡川といった
日高地方の主要な河川を利用して大規模な水力発電開発を
行うべく日高電源一貫開発計画を1952年(昭和27年)より開始し、
沙流川本流に岩知志ダムを1958年(昭和33年)に完成させていた。
同時期北海道開発局は苫小牧方面への工業用水供給と鵡川・沙流川
の治水を図るべく河川総合開発事業を企図、鵡川本流の赤岩青巌峡
付近に高さ103.0メートル、総貯水容量が3億立方メートルを超える巨大
ダム・赤岩ダム計画を発表した。
ところが水没予定地の占冠村が村を挙げて反対した結果
1961年(昭和36年)に計画は白紙撤回され、以後暫く総合開発計画は進展しなかった。
ところが苫小牧市に大規模な工業地帯を建設して北海道経済の
起爆剤とすべく苫小牧東部開発計画が立案され、その根幹事業として
苫小牧東部工業地帯(苫東)の建設が計画された。
このため再び工業用水の供給が課題となった。
二風谷ダム 2
沙流川は
日高支庁において鵡川と並ぶ規模の大きい一級河川である。
流域は競走馬の産地として知られる門別町などがあり、
古くから競走馬が生産されてきた。
しかしほとんど河川改修が行われない手付かずの原始河川であり、
上流域は急峻な日高山脈であることもあって一挙に洪水が下流域に
押し寄せ、水害の常襲地帯となっていた。
戦後もこの状態が続き、競走馬の生産も活発になっていたことから
莫大な資産を保護するための治水対策は急務であった。
一方で競走馬生産のほか農地も拡大、これに伴う農業用水の使用量
が増大する一方で灌漑設備は乏しく、安定した農業用水の供給も必要
になっていた。
さらに高度経済成長期には苫小牧市や室蘭市といった道南地域の工業地帯が拡張され、
北海道経済の伸長に弾みが付いていた。
こうした背景があって電力と工業用水道の確保も次第に求められていった。