2011/02/14 00:58:07
ノモンハン事件 3
清朝が雍正十二年(1734年)に定めたハルハ東端部(外蒙古)とホロンバイル草原南部の新バルガ(内蒙古)との境界は、モンゴルの独立宣言(1913年)以後も、モンゴルと中国の歴代政権の間で踏襲されてきたが、1932年に成立した満州国は、ホロンバイルの南方境界について、従来の境界から10-20キロほど南方に位置するハルハ河を新たな境界として主張、以後この地は国境紛争の係争地となった。
1939年にこの係争地でおきた両国の国境警備隊の交戦をきっかけに、日本軍とソ連軍がそれぞれ兵力を派遣し、交戦後にさらに兵力を増派して、大規模な戦闘に発展した。
5月の第一次ノモンハン事件と7月から8月の第二次ノモンハン事件にわかれ、第二次でさらに局面の変転がある。
第一次ノモンハン事件は両軍あわせて3500人規模の戦闘で、日本軍が敗北した。
第二次ノモンハン事件では、両国それぞれ数万の軍隊を投入した。7月1日から日本軍はハルハ川西岸への越境渡河攻撃と東岸での戦車攻撃を実施したが、いずれも撃退された。このあと日本軍は12日まで夜襲の連続で東岸のソ連軍陣地に食い入ったが、断念した。
7月23日に日本軍が再興した総攻撃は3日間で挫折した。
その後戦線は膠着したが、8月20日にソ連軍が攻撃を開始して日本軍を包囲し、31日に日本軍をソ連が主張する国境線内から後退させた。
一方、ハンダガヤ付近では、日本軍が8月末から攻撃に出て、9月8日と9月9日にモンゴル軍の騎兵部隊に夜襲をかけて敗走させた。 9月16日の停戦時に、ハルハ川右岸の係争地のうちノモンハン付近はソ連側が占めたが、ハンダガヤ付近は日本軍が占めていた。
停戦交渉はソ連軍の8月攻勢の最中に行われ、9月16日に停戦協定が結ばれた。
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