2011/03/02 00:07:01
北方領土問題 77
ノモンハン事件 19
第二次ノモンハン事件
停戦後の国境画定交渉一方、ソビエト連邦の首都モスクワでは、日本の東條茂徳駐ソ特命全権大使とソ連のヴャチェスラフ・モロトフ外務大臣との間で停戦交渉が進められていた。
だが、ソ連側の強硬な姿勢と、東郷が停戦協定を締結しても独断専行で事を進める関東軍が従うかどうかを憂慮して慎重に事を運んだ事もあって、両国の間においてようやく停戦協定が成立したのは9月15日の事であった。
停戦協定では、とりあえずその時点での両軍の占領地を停戦ラインとし、最終的な国境線の画定はその後の両国間の外交交渉にゆだねられた。
交渉は11月から翌年6月までかかってやっと合意に達したが、結局は停戦ラインとほぼ同じであった。
対立の対象となった地域のうちおよそ8割の、主戦場となった北部から中央部ではほぼモンゴル・ソ連側の主張する国境線によって画定し、一方主戦場からは外れていたが9月に入って日本軍が駆け込みで攻勢をかけて占領地を確保した残る2割ほどの南部地域は日本・満洲国側の主張する国境線に近いラインで画定した。
ノモンハン事件 19
第二次ノモンハン事件
停戦後の国境画定交渉一方、ソビエト連邦の首都モスクワでは、日本の東條茂徳駐ソ特命全権大使とソ連のヴャチェスラフ・モロトフ外務大臣との間で停戦交渉が進められていた。
だが、ソ連側の強硬な姿勢と、東郷が停戦協定を締結しても独断専行で事を進める関東軍が従うかどうかを憂慮して慎重に事を運んだ事もあって、両国の間においてようやく停戦協定が成立したのは9月15日の事であった。
停戦協定では、とりあえずその時点での両軍の占領地を停戦ラインとし、最終的な国境線の画定はその後の両国間の外交交渉にゆだねられた。
交渉は11月から翌年6月までかかってやっと合意に達したが、結局は停戦ラインとほぼ同じであった。
対立の対象となった地域のうちおよそ8割の、主戦場となった北部から中央部ではほぼモンゴル・ソ連側の主張する国境線によって画定し、一方主戦場からは外れていたが9月に入って日本軍が駆け込みで攻勢をかけて占領地を確保した残る2割ほどの南部地域は日本・満洲国側の主張する国境線に近いラインで画定した。
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