2011/03/03 00:05:40
ノモンハン事件 20
第二次ノモンハン事件
ノモンハン事件の戦略と戦術
兵力の集中と兵站
ソ連軍司令官のジューコフは、この戦いで兵站上の革新を成し遂げた。
19世紀後半から1939年までの陸軍の兵站線は鉄道を主体とするものであり、鉄道と港湾を離れて大軍を運用することはきわめて困難とされていた。
鉄道輸送は戦線の遙か後方にあるザバイカルのソロビヨフスコエ駅までしかできず、そこから後方基地までトラック輸送し、更に前線まで650-750kmに渡る長大な兵站線が必要であった。舗装道路なき平原で、未熟な運転手が道に迷うなどトラブルも多かったが、大規模自動車輸送によって8月までに大量の物資を蓄積したことで、第二次ノモンハン事件の前に十分な戦力を準備できた。当時のソ連軍は一般に補給を軽視していたがノモンハンでは例外で、後方支援部隊に戦功章を与えその実績を評価したほどであった。
ハイラル駅からの日本軍の補給線は約200kmであり、ソ連軍に比べるとはるかに短かった。この為、日本側は「敵よりも距離が短いので我が方が補給上有利」と考えていた。しかし、輸送力がはるか及ばなかった日本軍部隊は、ハイラルから戦場までを徒歩で行軍した。
満州国内の民間自動車をかき集めるなどの努力は行われたものの、燃料の輸送も十分に行えず、せっかく前線に送られた自動車も有効活用できないことがあった。ソ連側が自動車輸送によって大規模かつ迅速に補給を受けていたのに比べ、貧弱極まる補給態勢だった。この補給量と戦力の隔絶が以後の戦いの帰趨を決したといっても過言ではない。
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