北方領土問題 73
ノモンハン事件 15
第二次ノモンハン事件
停戦成立までの戦闘
ソ連軍は戦場となった係争地を確保し、陣地を築いた。
日本軍はソ連・モンゴル側主張の国境線のすぐ外側に防衛の陣を敷いた。関東軍は兵力を増強して攻撃をかける計画を立てた。作戦は、一部兵力によって敵の退路を遮断し、夜襲によってソ連軍の陣地を突破することを目指した。しかしこの段階では、歩兵で勝っていた7月までと異なり、増強を計算に入れたとしても、あらゆる戦力要素が日本軍に不利になっていた。
東京の大本営は、関東軍の楽観的な報告により、8月26、27日まで戦闘が有利に進んでいると認識していた。が、急激な事態の悪化を知り、日本軍が引くことで事態を収拾することを決め、9月3日にノモンハンでの攻勢作戦を中止し係争地から兵力を離すように命じた。
他方、南方のハンダガヤ付近では、増援に来着した歩兵2個連隊を基幹とした片山支隊が8月末から攻撃に出た。この地区で日本軍に対したのはモンゴル軍の騎兵部隊で、9月8日と9日に夜襲を受けて敗走した。9月16日の停戦時に、ハルハ川右岸の係争地のうち8割ほどの主戦場となったノモンハン付近はソ連側が占めたが、ハンダガヤ付近は日本軍が占めていた。
ソ連軍の猛攻の過程で、日本軍の連隊長級の前線指揮官の多くが戦死し、生き残った連隊長の多くも、戦闘終了後に敗戦の責任を負わされて自殺に追い込まれ、自殺を拒否した須見第26連隊長は予備役に編入されるなど、敗戦後の処理も陰惨であった。また、壊滅的打撃を受けた第23師団の小松原師団長も、事件の1年後に病死したが、これも実質的に自殺に近い状況だったと見られている。
その一方で独断専行を主導して惨敗を招いた辻政信・服部卓四郎ら関東軍の参謀は、一時的に左遷されたのみで、わずか2年後の太平洋戦争開戦時には陸軍の中央に返り咲いた。