ノモンハン事件 16
第二次ノモンハン事件
航空戦
航空戦の主力となったのは
日本軍は九七式戦闘機、ソ連軍はⅠ-153とⅠ-16であった。
当初はソ連空軍に比べて日本軍操縦者(空中勤務者)の練度が圧倒的に
上回っており、戦闘機の性能でも、複葉機のI-153に対しては圧倒的な優勢、
I-16に対しても、一長一短はあるものの(I-16は武装と急降下速度に優れ、
九七戦は運動性と最高速度に優れる)、ほぼ互角であった。
また、投入した航空機の数も、当初はほぼ互角であった。
第一次ノモンハン事件の空中戦は、地上戦とは異なり、日本軍の圧倒的な勝利
となった。
日本陸軍航空隊(陸軍航空部隊)の操縦者達の活躍は目覚しく、
20機以上撃墜のエース・パイロットが23名おり、なかでもトップ・エースの篠原弘道
は3ヶ月で58機撃墜を記録した。
ノモンハンにおけるエースはほかに樫出勇、岩橋譲三、坂井庵、西原五郎などが
いる。ただしこれらの記録には、かなり誤認戦果も含まれる。
優位な航空勢力を活用し戦況を有利に進めるべく関東軍は
日本側の主張する国境線よりモンゴル側にあるソ連軍のタムスク飛行場
(モンゴル語ではタムサグ・ボラク)の爆撃計画を立てた。
しかし計画を事前に知った大本営中央は国境を越えた軍事行動であり
事態の拡大を招来することに危惧し自発的な計画の中止を打電、6月25日
には大本営作戦参謀の有末次中佐を派遣し計画の翻意を図った。
空爆計画の実行を強く願った関東軍は、有末中佐の到着以前の計画実行
を決定、6月27日、関東軍はタムスク飛行場を重爆24機、軽爆6、戦闘機77
の合計107機で実施、未帰還機4機という少ない被害により戦術的には大戦果
を上げた。
しかしこれは国境紛争を全面戦争に転化させかねない無謀な行為だったので、
陸軍中央の怒りを買うと同時に、空爆計画を関東軍の冒険主義であることを
知らないソビエト・モンゴル側からすると大掛かりなアジア侵略を歌った
「田中上奏文」の実現として認識された。