2011/02/08 00:27:37
北方領土問題 55
関東軍特別演習 2
参謀本部、とりわけ田中新一作戦部長を中心とする人々は、昭和16(1941)年6月中旬から各地に大動員をかけることによって関東軍の兵力を一挙に34個師団に増強し、これをもって日ソ中立条約を破棄し、ソ連国内に突入して極東ソ連領を占拠しようと考えた。
当時、独ソ戦が開始されており、それに呼応する形で東西からのソ連挟撃がこの作戦の眼目であった。とはいえ、それまではドイツの圧倒的有利に進んでいたかのような戦線も、7
月には膠着が始まっていた。
また、日本国内では資源獲得のための南進論が優勢であって、特に海軍がこれを唱えてやまず、陸軍内部でも陸軍省がこれに同調した。しかし、それでも作戦部はこの計画を取りやめず、ほとんどどさくさ紛れに朝鮮軍や満州軍を動員して北部満州の広野に集結せしめた。そして田中作戦部長もついに東條首相から24個師団を北満に集める承認を獲得することに成功した。
だが、外相豊田貞次郎は「関特演」実施を承認した大本営政府連絡会議において、「対ソ外交交渉要綱」を決し、ソ連が日ソ中立条約を違反しない限り日本がこれを侵すことはないことを銘記し、それをそのままソ連側に通告した。これは「関特演」封じ込めのための措置に他ならない。
かくして、豊田外相によって「関特演」は不発に終わったが、実施のために集められる予定であった兵力120万のうち70万が、馬匹30万のうち14万が集結していたと言われる。
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