2010/12/22 00:53:33
大黒屋らは言葉もわからず、飢えと寒さにより、ここで8人の仲間が死亡。
故郷の南若松村では、光太夫ら乗組員は難破して海に沈んだものと思われ、心海寺に供養碑が建てられました。
写真は光太夫と磯吉
大黒屋の帰国の望みはロシアからの商人の迎の船でしたが、ロシア船が座礁したのを知ると、光太夫らは流木を集めて船を造ることにしました。
ニビジモフらロシア商人の協力を得て、やっとの思いでアムチトカ島を出発したのはこの島に来て4年の歳月が経っていました。
アムチトカ島にラッコの皮を取りに来たロシア人が、一行をカムチャッカ半島のロシア人の町ニジニカムチャッカに連れて行きました。ここで大黒屋光太夫らは日本に帰りたいと役人に願い出ますが、当時日本は鎖国中。不許可となり、この段階で既に何人もの仲間を亡くしました。
しかしシベリア総督も、彼等の日本送還を決断できません。
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