北方領土問題 55
関東軍特別演習 2
参謀本部、とりわけ田中新一作戦部長を中心とする人々は、昭和16(1941)年6月中旬から各地に大動員をかけることによって関東軍の兵力を一挙に34個師団に増強し、これをもって日ソ中立条約を破棄し、ソ連国内に突入して極東ソ連領を占拠しようと考えた。
当時、独ソ戦が開始されており、それに呼応する形で東西からのソ連挟撃がこの作戦の眼目であった。とはいえ、それまではドイツの圧倒的有利に進んでいたかのような戦線も、7
月には膠着が始まっていた。
また、日本国内では資源獲得のための南進論が優勢であって、特に海軍がこれを唱えてやまず、陸軍内部でも陸軍省がこれに同調した。しかし、それでも作戦部はこの計画を取りやめず、ほとんどどさくさ紛れに朝鮮軍や満州軍を動員して北部満州の広野に集結せしめた。そして田中作戦部長もついに東條首相から24個師団を北満に集める承認を獲得することに成功した。
だが、外相豊田貞次郎は「関特演」実施を承認した大本営政府連絡会議において、「対ソ外交交渉要綱」を決し、ソ連が日ソ中立条約を違反しない限り日本がこれを侵すことはないことを銘記し、それをそのままソ連側に通告した。これは「関特演」封じ込めのための措置に他ならない。
かくして、豊田外相によって「関特演」は不発に終わったが、実施のために集められる予定であった兵力120万のうち70万が、馬匹30万のうち14万が集結していたと言われる。
北方領土問題 53
日ソ中立条約破棄を巡る議論
ソ連側の主張
1941年7月に日本陸軍は「関東軍特別演習」(関特演)を行っており、これは日本側からの重大な軍事的挑発であるとして、中立条約破棄の責任を否定する見解がある。
また、この「演習」は極東に配備されていたソ連軍部隊を、対独戦に投入する事を阻止する目的で行われたものであり、ドイツが勝利していれば、直ちに日本軍がソ連領内に侵攻する意図をも含んでいた、との主張もなされる。
太平洋戦争(大東亜戦争)についての日本のポツダム宣言受諾を受けて行われた極東国際軍事裁判判決では、「中立条約が誠意なく結ばれたものであり、またソビエト連邦に対する日本の侵略的な企図を進める手段として結ばれたものであることは、今や確実に立証されるに至った。」とソ連側の行為を合法的なものと規定している。
北方領土問題 52
日ソ中立条約破棄を巡る議論
日本側の主張
条約の一方的破棄から参戦にいたるソ連の行動に対しては、「ソ連は条約を踏みにじって攻め込んだ」として強く非難する声が日本国内に根強く存在する。国際法上または外交信義に鑑み、ソ連の一方的な条約破棄を正当化できる根拠はないとする主張である。
具体的には、日ソ中立条約は、その第3条において、
本条約は両締約国に於て其の批准を了したる日より実施せらるべく 且5年の期間効力を有すべし / 両締約国の何れの一方も右期間満了の1年前に本条約の廃棄を通告せざるときは本条約は次の5年間自動的に延長せらるものと認めらるべし(原文カナ、濁点および「/」なし)
とされ、前半部にて、本条約はその締結により5年間有効とされており、当該期間内の破棄その他条約の失効に関する規定は存在しない。期間満了の1年前までに廃棄通告がなされた場合には、後半部に規定される5年間の自動延長(6年目から満10年に相当する期間)が行われなくなり、条約は満5年で終了するものと解するのが妥当と解釈される。
また、「関東軍特別演習」(通称:関特演)による日本の背信行為によって条約が破棄されたという見解に対しては、演習はあくまでも演習であり、演習以降も中立条約に基づく体制は維持されたことから、実際に中立条約破棄を行い、開戦したのはソ連であると批判する。
ヤルタ会談でソ連が対日参戦を秘密裏に決めた後の1945年4月5日、ソ連のモロトフ外相は佐藤尚武駐ソ大使を呼び、日ソ中立条約を延長しない旨を通告したが、その際に日ソ中立条約は1946年4月までは有効であることが確認されている。
さらに、日ソ中立条約が破棄されるまで、ソ連は日本政府に対して日本が中立条約に違反しているとの抗議を一度もしたことがない。
極東国際軍事裁判の決定については、判事団中には当事国・戦勝国としてのソ連から派遣された判事がおり、公平性・中立性の観点から問題があるとの批判がある。
極東法廷など戦後裁判の審決を受諾したサンフランシスコ条約にソビエトは署名していない。
北方領土問題 51
日ソ中立条約破棄
1945年(昭和20年)4月5日、翌年期限切れとなる同条約をソ連は延長しないことを日本に通達した。この背景には、ヤルタ会談にて秘密裏に対日宣戦が約束されたことがある。ポツダム会議では、原爆完成により、アメリカはソ連の参戦なくして日本を降伏させることも可能と判断しソ連参戦の回避を図ったとされる。
一方、日本側はソ連の仲介による和平工作をソ連側に依頼していた。ソ連はこれを黙殺し密約どおり対日参戦を行うことになる。
ソ連は8月8日深夜に突如、日ソ中立条約の破棄を宣言し「日本がポツダム宣言を拒否したため連合国の参戦要請を受けた」として宣戦を布告。
9日午前零時をもって戦闘を開始し、南樺太・千島列島及び満州国・朝鮮半島北部等へ侵攻した。この時、日本大使館から本土に向けての電話回線は全て切断されており、完全な奇襲攻撃となった。
北方領土問題 50
日ソ中立条約
日ソ中立条約は、1941年(昭和16年)に日本とソビエト連邦(ソ連)の間で締結された中立条約。
相互不可侵および、一方が第三国の軍事行動の対象になった場合の他方の中立などを定めた全4条の条約本文、及び、満州国とモンゴル人民共和国それぞれの領土の保全と相互不可侵を謳った声明書から成る。有効期間は5年であり、その満了1年前までに両国のいずれかが廃棄を通告しない場合は、さらに次の5年間、自動的に延長されるものとされた(第3条)。
当時の日本はアメリカなどと関係が極端に悪化していた。当時の駐ソ連大使であった東郷茂徳は、日独伊三国軍事同盟の締結に反対し、むしろ思想問題以外の面で国益が近似する日ソ両国が連携することによって、ドイツ、アメリカ、中華民国の三者を牽制する事による戦争回避を考え、日ソ不可侵条約締結を模索していた。
ところが、松岡洋右が外務大臣に就任すると、構想は変質させられ、日独伊三国軍事同盟に続き、日ソ中立条約を結ぶことによりソ連を枢軸国側に引き入れ、最終的には四国による同盟を結ぶ(「日独伊ソ四国同盟構想」。松岡自身は「ユーラシア大陸同盟」と呼称)ことで、国力に勝るアメリカに対抗することが目的とされた。
当初、ソ連は応じなかったものの、ドイツの対ソ侵攻計画を予見したことから提案を受諾し、1941年4月13日調印した。
同年11月には、ソ連は極東に配備していた部隊を西部へ移送し、同年12月のモスクワ防衛戦に投入した。ドイツ軍は、ソ連軍(赤軍)の反撃により、モスクワ前面で100マイル近く押し戻され、1941年中にソ連を崩壊させることを狙ったバルバロッサ作戦は、失敗に終わった。
また、この条約の締結に先立ち、チャーチルは松岡にドイツは早晩、ソ連に侵攻することを警告している。
ヤルタ協定(1945年2月)
1945年2月に署名されたヤルタ協定では、樺太の南部及びこれに隣接するすべての島はソ連に「返還する」こと、及び千島列島はソ連に「引き渡す」ことが書かれています。
ソ連は従来から、北方領土問題についてヤルタ協定を引き合いに出していました。
しかし、ヤルタ協定は、当時の連合国の首脳者の間で戦後の処理方針を述べたに過ぎず、日本はヤルタ協定に参加していないため、この協定に拘束されることはありません。
また、そもそも同協定の内容はカイロ宣言に反しており、また米国政府も1956年9月7日のこの問題に関する同政府の公式見解において、この協定に関する法的効果を否定しています。
カイロ宣言(1943年11月)
1943年のカイロ宣言では、日本について、第1次世界大戦により得た太平洋の諸島、満州、台湾及び澎湖島、朝鮮、それに「暴力および貪欲により日本国が略取した」他のすべての地域から追い出さなければならないと宣言しました。
南樺太、千島列島についてははっきり述べていませんが、千島列島は、樺太千島交換条約によって平和裏に我が国が譲り受けたものであり、暴力および貪欲により略取された地域ではありません。
ましてや、日本固有の領土である歯舞群島、色丹島、国後島及び択捉島が、カイロ宣言に述べられた「日本国の略取したる地域」にあたらないことは言うまでもないことです。
●サン・フランシスコ平和条約
1951年(昭和26年)、日本はサン・フランシスコ平和条約に調印しました。
この結果、日本は千島列島と北緯50度以南の南樺太の権利、権原及び請求権を放棄しました。
しかし、放棄した千島列島に固有の領土である北方四島は含まれていません。
1951年、サンフランシスコ平和条約が署名され、日本は、千島列島と北緯50度以南の南樺太を放棄した。しかし、放棄したこれらの地域が最終的にどこに帰属するかについては、何も定めておらず、ソ連は今日まで事実上これらの地域に施政を及ぼしてきましたが、国際法上これらの地域がどこに帰属するかは今なお未定である。
同条約にいう千島列島には固有の領土である北方四島は含まれておらず、このことについて米国政府も1956年9月7日の国務省覚書で「択捉、国後両島は(北海道の一部たる歯舞群島及び色丹島とともに)常に固有の日本領土の一部をなしてきたものであり、かつ、正当に日本国の主権下にあるものとして認められなければならないものである」という公式見解を明らかにしている。
北千島占守島の戦い(日本軍最後の戦い)2
なぜ、終戦3日後にソ連軍は強襲上陸進攻を強行したのでしょうか、
終戦までこの地域では、陸上戦闘こそありませんでしたが、この頃の日本軍は本土防衛のための兵力転用が行われていました。
この移動のための輸送船や舟艇等に対する砲爆撃、及び、千島列島に配備された日本軍に対する砲爆撃は米海軍によって行われ、終戦3日前の8月12日には、配備変更のため温禰古丹島から占守島に漁船で移動中の日本軍の独立臼砲部隊が米艦隊の砲撃により全滅させられ、88名に上る戦死者を出しています。
このように米軍の戦闘実績のある千島列島であり、また、いかにヤルタ会談での秘密協定で千島列島をソ連に引き渡すという米・英国の言質を得ていたとしても、カイロ宣言に違反する行為である日本固有領土の千島列島を米・英国がソ連に引き渡すということを、ソ連は米・英国が本当に実行するか否かは疑問を持っていたに違いありません。
そこでソ連軍は、自ら戦闘により、即ち血と肉で千島を占領して、千島列島の占領を確実なものにしようとして、日本国がポツダム宣言を受諾した後の8月15日からあわただしく準備して、奇襲上陸をしてきたものと思われます。
また、その後にソ連が米国に対して行った北海道の分割統治の要求を行ったという事実からみると、千島侵攻がうまく行けば一気に北海道まで侵攻しようとする意図があったものと思われます。
この点から考えると、この占守島の戦いによりソ連軍の千島列島の占領は遅滞され、その間に米軍の北海道進駐が完了したので、ドイツや朝鮮半島に見るような北海道の米国・ソ連による分割統治は避けられたのであり、日本としては大きな意義のある戦いでした。
しかしながら、この戦いの後、占守島で自衛戦闘を戦った日本軍の兵士のみならず、ソ連軍に対していかなる戦闘をもしていない、中千島や南千島に駐留していた兵士たちまでもすべて、シベリアを主体とするソ連領内に連行され、数年にわたり給養の悪い状態で強制労働に従事させられたのでした。そして、その1割の兵士は、栄養失調と疲労のために亡くなっているのです。
戦争が終わったのに、その三日後に不本意ながら戦って戦死した方々、終戦後も不法に長期間にわたってシベリア等の極寒の僻地で強制労働に従事させられた方々、そしてその地で亡くなられた多くの方々、この様な方々がおいでになった事は日本人として決して忘れてはなりません。