ノモンハン事件 7
戦争の経過
第一次ノモンハン事件(5月11日-5月31日)
係争地では満州国軍とモンゴル軍がパトロールしており、たまに遭遇し交戦することがあった。
5月11日、12日の交戦は特に大規模なものであったが、モンゴル軍、満州国軍がともに「敵が侵入してきたので損害を与えて撃退した」と述べているため、真相不明である。
第23師団長の小松原道太郎中将は、モンゴル軍を叩くために東八百蔵中佐の師団捜索隊と2個歩兵中隊、満州国軍騎兵からなる部隊(東支隊)を送り出した。
5月15日に現地に到着した東支隊は、敵が既にいないことを知って引き上げた。しかし、支隊の帰還後になって、モンゴル軍は再びハルハ川を越えた。
この頃、上空では日本軍とソ連軍の空中戦が頻発し、日本機は自国主張の国境を越えてハルハ川西岸の陣地に攻撃を加えた。両軍とも、敵の越境攻撃が継続中であると考え、投入兵力を増やすことを決めた。
5月21日に小松原師団長は再度の攻撃を命令した。出動した兵力は、歩兵第64連隊第3大隊と連隊砲中隊の山砲3門、速射砲中隊の3門をあわせて1058人、前回に引き続いて出動する東捜索隊220人(九二式重装甲車1両を持つ)、輜重部隊340人、さらに満州国軍騎兵464人が協同し、総兵力2082人であった。指揮は歩兵第64連隊長山県武光大佐がとり、山県支隊と呼ばれた。
北方領土問題 64
ノモンハン事件 6
「満ソ国境紛争処理要綱」
1938年に起こった張鼓峰事件は、満州とソ連の国境でおこった紛争だったが、関東軍・満州国軍ではなく日本の朝鮮軍が戦った。
この事件でソ連側が多くを得たことに不満を感じた関東軍は、係争地を譲らないための方針を独自に作成した。それが「満ソ国境紛争処理要綱」である。
「満ソ国境紛争処理要綱」は辻政信参謀が起草し、1939年4月に植田謙吉関東軍司令官が示達した。要綱は、「国境線明確ならざる地域に於ては、防衛司令官に於て自主的に国境線を認定」し、「万一衝突せば、兵力の多寡、国境の如何にかかわらず必勝を期す」として、日本側主張の国境線を直接軍事力で維持する好戦的方針を示していた。この要領を東京の大本営は黙認し、政府は関知しなかった。
北方領土問題 63
ノモンハン事件 5
モンゴルは、1912年の辛亥革命を好機として、ジャプツンダンパ八世を君主に擁する政権を樹立した。ただしモンゴルの全域を制圧する力はなく、モンゴル北部(ハルハ四部プラスダリガンガ・ドルベト即ち外蒙古)のみを確保するにとどまり、モンゴルの南部(内蒙古)は中国の支配下にとどまることとなった。バルガの2旗が位置するホロンバイ草原は、地理的には外蒙古の東北方に位置するが、この分割の際には中国の勢力圏に組み込まれ、東部内蒙古の一部を構成することとなった。
その後、モンゴルではジェプツンダンパ政権の崩壊と復活、1921年の人民革命党政権の成立、1924年の人民共和国への政体変更などがあったが、これらモンゴルの歴代政権と、内蒙古を手中におさめた中華民国歴代政権との間では、ハルハの東端と新バルガの境界について、問題が生ずることはなかった。
ところが旧東三省と東部内蒙古を領土として1932年に成立した満州国は、新バルガの南方境界として、新たにハルハ河を主張、本事件の戦場域は、「国境紛争の係争地」となった。モンゴルと満洲国の国境画定交渉は断続的に行われたが、1935年以降途絶した。
満洲、モンゴルの両当事者とも、この係争を小競り合い以下の衝突にとどめるべく、話し合いによる解決を模索しようとしたが、両国の後ろ盾となっている日本、ソ連は、この時期それぞれ、極東方面において相手を叩く口実を探しており、「話し合いによる解決」を模索していた満州国・モンゴルの代表者たちをそれぞれソ連、日本に通じたスパイとして断罪、粛清したのち、大規模な軍事衝突への準備を推し進めてゆく。
ノモンハン事件 4
開戦の背景
国境紛争
モンゴル側は1734年以来外蒙古と内蒙古の境界を為してきた、ハルハ河東方約20キロの低い稜線上の線を国境として主張したのに対し、1932年に成立した満州国はハルハ河をもって境界線として主張した。
満州国、日本側の主張する国境であるハルハ河からモンゴル・ソ連側主張の国境線までは、草原と砂漠である。土地利用は遊牧のみであり、国境管理はほぼ不可能で、付近の遊牧民は自由に国境を越えていた。
本事件の係争地となった領域がはじめて具体的に行政区画されたのは、清代、雍正年間のことである。
従前、この地はダヤン・ハーンの第七子ゲレンセジェの系統を引くチェチェン・ハン部の左翼前旗および中右翼旗など、ハルハ系の諸集団の牧地であった。
1730年代、清朝が新附のモンゴル系、ツングース系の諸集団を旧バルガ、新バルガのふたつのホショー(旗)に組織し、隣接するホロンバイル草原に配置した。雍正十二年(1734年)、理藩院尚書ジャグドンによりハルハと、隣接する新バルガの牧地の境界が定められ、その境界線上にオボーが設置された。本事件においてモンゴル側が主張した国境は、この境界を踏襲したものである。
本事件の名称の由来となったノモンハンは、左翼前旗の始祖ペンバの孫チョブドンが受けたチベット仏教の僧侶としての位階の呼称に由来し、チョブドンの墓や、ハルハと新バルガとの境界に設置されたオボーのひとつなどにも、チョブドンの受けたこの「ノモンハン」の称号が冠せられている。
ノモンハン事件 3
清朝が雍正十二年(1734年)に定めたハルハ東端部(外蒙古)とホロンバイル草原南部の新バルガ(内蒙古)との境界は、モンゴルの独立宣言(1913年)以後も、モンゴルと中国の歴代政権の間で踏襲されてきたが、1932年に成立した満州国は、ホロンバイルの南方境界について、従来の境界から10-20キロほど南方に位置するハルハ河を新たな境界として主張、以後この地は国境紛争の係争地となった。
1939年にこの係争地でおきた両国の国境警備隊の交戦をきっかけに、日本軍とソ連軍がそれぞれ兵力を派遣し、交戦後にさらに兵力を増派して、大規模な戦闘に発展した。
5月の第一次ノモンハン事件と7月から8月の第二次ノモンハン事件にわかれ、第二次でさらに局面の変転がある。
第一次ノモンハン事件は両軍あわせて3500人規模の戦闘で、日本軍が敗北した。
第二次ノモンハン事件では、両国それぞれ数万の軍隊を投入した。7月1日から日本軍はハルハ川西岸への越境渡河攻撃と東岸での戦車攻撃を実施したが、いずれも撃退された。このあと日本軍は12日まで夜襲の連続で東岸のソ連軍陣地に食い入ったが、断念した。
7月23日に日本軍が再興した総攻撃は3日間で挫折した。
その後戦線は膠着したが、8月20日にソ連軍が攻撃を開始して日本軍を包囲し、31日に日本軍をソ連が主張する国境線内から後退させた。
一方、ハンダガヤ付近では、日本軍が8月末から攻撃に出て、9月8日と9月9日にモンゴル軍の騎兵部隊に夜襲をかけて敗走させた。 9月16日の停戦時に、ハルハ川右岸の係争地のうちノモンハン付近はソ連側が占めたが、ハンダガヤ付近は日本軍が占めていた。
停戦交渉はソ連軍の8月攻勢の最中に行われ、9月16日に停戦協定が結ばれた。
ノモンハン事件 1
ノモハン事件は、1939年(昭和14年)5月から同年9月にかけて、満州国とモンゴル人民共和国の間の国境線をめぐって発生した日ソ両軍の国境紛争事件。
満州国軍とモンゴル人民共和国軍の参加もあったが、実質的には両国の後ろ盾となった大日本帝国陸軍とソビエト労農赤軍の主力の衝突が勝敗の帰趨を決した。
当時の日本帝国とソビエト連邦の公式的見方では、この衝突は一国境紛争に過ぎないというものであったが、モンゴル国のみは、人民共和国時代よりこの衝突を「戦争」と称している。
以上の認識の相違を反映し、この戦争について、日本および満洲国は「ノモンハン事件」、ソ連は「ハルハ河の事件」と呼び、モンゴル人民共和国及び中国は「ハルハ河(ハルヒン・ゴル 中国語: 哈拉哈河)戦争(または戦役)」と称している。
北方領土問題 58
第二次世界大戦 3
第二次世界大戦の戦域を大別すると、ヨーロッパと北アフリカ、そして西アジアの一部を除く
アジアと太平洋全域に分けられる。
このうち、ドイツ・イタリア等とイギリス・フランス・ソ連・アメリカ等が戦った前者を欧州戦線、
日本等とアメリカ・イギリス・中華民国・オーストラリア等が戦った後者を日本は大東亜戦争、
連合国は太平洋戦争と呼称した。
ヨーロッパ戦線はさらに西部戦線、東部戦線(独ソ戦)に大別され、西部ではアメリカ・イギリス・
フランス、東部ではソ連がドイツ他の枢軸国と戦った。しかしこのほか中南米やカリブ海、マダガ
スカル島など世界各地で戦闘が行われた。
戦争は完全な総力戦となり、主要参戦国では戦争遂行のため人的・物的資源の全面的動員、
投入が行われた。世界の61カ国が参戦し、総計で約1億1000万人が軍隊に動員され、主要参
戦国の戦費はアメリカの3410億ドルを筆頭に、ドイツ2720億ドル、ソ連1920億ドル、イギリス
1200億ドル、イタリア940億ドル、日本560億ドルなど、総額1兆ドルを超える膨大な額に達した。
航空機や戦車などの旧来型兵器の著しい発達に加えて長距離ロケットや原子爆弾などの「核兵器」という大量殺戮兵器が登場し、戦場と銃後の区別が取り払われた。史上最初の原子爆弾の投下を含む都市への爆撃、ドイツ占領下の各地で実施された強制労働や略奪および約600万ものユダヤ人の組織的絶滅政策の遂行などにより、婦女子を含む約3000万人の一般市民が命を落とした。民間人の死者は大戦での死者総数約5500万人の半分を超えることとなった。
大戦後、戦争の帰趨に決定的な影響を与えたソビエト連邦とアメリカ合衆国の両戦勝国は、ともに世界を指導する超大国として冷戦の構図をもたらした。
戦場となったヨーロッパ、日本は国力を著しく低下し、アジア及びアフリカの植民地は続々と独立を果たした。のちの東西冷戦を経て、西ヨーロッパでは大戦での対立を乗り越え欧州統合の機運が高まった。
北方領土問題 57
第二次世界大戦 2
1941年末には日本がマレー作戦と真珠湾攻撃を行ってソ連を除く連合国に宣戦
(これ以前から中華民国とは交戦状態にあった)、これを受けてアメリカは連合国側に参戦した。
日本は連戦連勝を続け、1942年にセイロン沖海戦やアメリカ本土空襲、オーストラリア空襲を行うなどその勢力を拡大した。
しかし1943年にはドイツがスターリングラード攻防戦、北アフリカ戦線で敗北し、同年枢軸国は北アフリカを放棄しイタリアが降伏する。
アジア太平洋戦線ではミッドウェー海戦で敗北した後も日本が優勢を保ったものの、補給線が国力を超えて伸びきった事などから1943年後半には連合国が優勢になった。
1944年には連合国がノルマンディー上陸作戦を成功させるほか、マリアナ沖海戦やインパール作戦に勝利するなど勢いが更に増し、枢軸国は次々と降伏。
1945年にドイツ軍は総崩れとなり、追い込まれたヒトラーは4月30日に自殺。5月9日にドイツ国防軍は降伏して欧州における戦争は終結した。
また日本も同年8月6日に広島市への原子爆弾投下、8日のソ連軍の参戦さらに9日の長崎市への原子爆弾投下、を受けて降伏を選択。
8月14日にポツダム宣言を受諾し、9月2日に降伏文書に調印した。
北方領土問題 56
第二次世界大戦 1
第二次世界大戦は、1939年から1945年にかけ、
ドイツ、イタリア、大日本帝国の三国同盟を中心とする枢軸国陣営と、
イギリス、フランス、アメリカ、ソ連、中華民国などの連合国陣営との
間で戦われた全世界的規模の戦争。
1939年9月1日のドイツ軍によるポーランド侵攻とともにヨーロッパ戦争として始まったが、
1941年6月のドイツによるソ連攻撃と12月の日本の英米との開戦によって、戦火は
文字通り全世界に拡大した。
1939年9月1日、ドイツ軍がポーランドへ侵攻したことが第二次世界大戦の始まりとされている。
1939年8月23日に秘密条項を持った独ソ不可侵条約が締結され、同年9月1日早朝 (CEST) 、
ドイツ軍がポーランドへ侵攻し、9月3日にイギリス・フランスがドイツに宣戦布告。
9月17日にはソ連軍が東からポーランドへ侵攻し、ポーランドは独ソ両国により独ソ不可侵条約
に基づいて分割・占領された。
さらにソ連はバルト三国及びフィンランドに領土的野心を示し、11月30日からフィンランドへ侵攻して
冬戦争を起こし、この侵略行為を非難され国際連盟から除名されながらも1940年3月にはフィンランドから領土を割譲させた。
ソ連はまず軍隊をバルト三国に駐留させ、1940年6月には40万以上の大軍で侵攻。
8月にはバルト三国を併合した。
ドイツも1940年にノルウェー、ベネルクス、フランス等を次々と攻略し、ダンケルクの戦いで連合国をヨーロッパ大陸から追い出したほか、イタリアおよび日本と日独伊三国軍事同盟を結成した。
1941年にはドイツ軍はソビエト連邦に侵攻。