- 2025/02/02 [PR]
- 2011/02/28 第二次ノモンハン事件「第一次と第二次を併せたソ連側損失」
- 2011/02/27 第二次ノモンハン事件「航空戦」
- 2011/02/26 第二次ノモンハン事件「停戦成立までの戦闘」
- 2011/02/25 第二次ノモンハン事件「8月20日、爆撃と砲撃の後にソ連軍の前進が始まる」
- 2011/02/24 第二次ノモンハン事件「ソ連軍の8月攻勢」
- 2011/02/23 第二次ノモンハン事件「砲兵支援下の総攻撃」
- 2011/02/22 第二次ノモンハン事件「小規模な夜襲を全戦線で多数しかけて攻撃を進めた」
- 2011/02/21 第二次ノモンハン事件
- 2011/02/20 第二次ノモンハン事件
- 2011/02/19 ノモンハン事件 <戦争の経過>
北方領土問題 75
ノモンハン事件 17
第二次ノモンハン事件
第二次ノモンハン事件に入ると、ソ連軍は日本軍をはるかに上回る数の航空機を動員して、操縦者の練度で優る日本軍航空部隊を数で圧倒するとともに、スペイン内戦に共和国側の義勇兵として参加してドイツ空軍と戦っていた戦闘経験豊富な操縦者を派遣し、操縦者の質でもある程度日本軍に対抗できるようになる。
ソ連側は戦術を変更し、旋回性能の優れた日本軍の九七式戦闘機に対し、操縦手背面に装甲板を装備したI-16による一撃離脱戦法に徹するようになった。これにより日本軍は以前のように撃墜戦果を挙げられなくなったばかりか、損害が目立つようになった。
第一次と第二次を併せたソ連側損失は、日本側の主張では1,252機。またソ連側がかつて主張していた損害は145機、後のソ連崩壊直前に訂正された数字では被撃墜207機+事故損失42機。一方、日本機の損害は記録によると大中破も合わせて157機(未帰還及び全損は64機、内九七戦は51機で戦死は53名)だった。日本側の損耗率は60%で、最後には九七戦の部隊が枯渇して、旧式な複葉機の九五式戦闘機が投入されるに至った。これらの戦訓から陸軍は航空機の地上戦での有効性と損耗の激しさを知り、一定以上の数を揃える必要性を痛感した。
ノモンハン事件 16
第二次ノモンハン事件
航空戦
航空戦の主力となったのは
日本軍は九七式戦闘機、ソ連軍はⅠ-153とⅠ-16であった。
当初はソ連空軍に比べて日本軍操縦者(空中勤務者)の練度が圧倒的に
上回っており、戦闘機の性能でも、複葉機のI-153に対しては圧倒的な優勢、
I-16に対しても、一長一短はあるものの(I-16は武装と急降下速度に優れ、
九七戦は運動性と最高速度に優れる)、ほぼ互角であった。
また、投入した航空機の数も、当初はほぼ互角であった。
第一次ノモンハン事件の空中戦は、地上戦とは異なり、日本軍の圧倒的な勝利
となった。
日本陸軍航空隊(陸軍航空部隊)の操縦者達の活躍は目覚しく、
20機以上撃墜のエース・パイロットが23名おり、なかでもトップ・エースの篠原弘道
は3ヶ月で58機撃墜を記録した。
ノモンハンにおけるエースはほかに樫出勇、岩橋譲三、坂井庵、西原五郎などが
いる。ただしこれらの記録には、かなり誤認戦果も含まれる。
優位な航空勢力を活用し戦況を有利に進めるべく関東軍は
日本側の主張する国境線よりモンゴル側にあるソ連軍のタムスク飛行場
(モンゴル語ではタムサグ・ボラク)の爆撃計画を立てた。
しかし計画を事前に知った大本営中央は国境を越えた軍事行動であり
事態の拡大を招来することに危惧し自発的な計画の中止を打電、6月25日
には大本営作戦参謀の有末次中佐を派遣し計画の翻意を図った。
空爆計画の実行を強く願った関東軍は、有末中佐の到着以前の計画実行
を決定、6月27日、関東軍はタムスク飛行場を重爆24機、軽爆6、戦闘機77
の合計107機で実施、未帰還機4機という少ない被害により戦術的には大戦果
を上げた。
しかしこれは国境紛争を全面戦争に転化させかねない無謀な行為だったので、
陸軍中央の怒りを買うと同時に、空爆計画を関東軍の冒険主義であることを
知らないソビエト・モンゴル側からすると大掛かりなアジア侵略を歌った
「田中上奏文」の実現として認識された。
北方領土問題 73
ノモンハン事件 15
第二次ノモンハン事件
停戦成立までの戦闘
ソ連軍は戦場となった係争地を確保し、陣地を築いた。
日本軍はソ連・モンゴル側主張の国境線のすぐ外側に防衛の陣を敷いた。関東軍は兵力を増強して攻撃をかける計画を立てた。作戦は、一部兵力によって敵の退路を遮断し、夜襲によってソ連軍の陣地を突破することを目指した。しかしこの段階では、歩兵で勝っていた7月までと異なり、増強を計算に入れたとしても、あらゆる戦力要素が日本軍に不利になっていた。
東京の大本営は、関東軍の楽観的な報告により、8月26、27日まで戦闘が有利に進んでいると認識していた。が、急激な事態の悪化を知り、日本軍が引くことで事態を収拾することを決め、9月3日にノモンハンでの攻勢作戦を中止し係争地から兵力を離すように命じた。
他方、南方のハンダガヤ付近では、増援に来着した歩兵2個連隊を基幹とした片山支隊が8月末から攻撃に出た。この地区で日本軍に対したのはモンゴル軍の騎兵部隊で、9月8日と9日に夜襲を受けて敗走した。9月16日の停戦時に、ハルハ川右岸の係争地のうち8割ほどの主戦場となったノモンハン付近はソ連側が占めたが、ハンダガヤ付近は日本軍が占めていた。
ソ連軍の猛攻の過程で、日本軍の連隊長級の前線指揮官の多くが戦死し、生き残った連隊長の多くも、戦闘終了後に敗戦の責任を負わされて自殺に追い込まれ、自殺を拒否した須見第26連隊長は予備役に編入されるなど、敗戦後の処理も陰惨であった。また、壊滅的打撃を受けた第23師団の小松原師団長も、事件の1年後に病死したが、これも実質的に自殺に近い状況だったと見られている。
その一方で独断専行を主導して惨敗を招いた辻政信・服部卓四郎ら関東軍の参謀は、一時的に左遷されたのみで、わずか2年後の太平洋戦争開戦時には陸軍の中央に返り咲いた。
北方領土問題 72
ノモンハン事件 14
第二次ノモンハン事件
8月20日、爆撃と砲撃の後にソ連軍の前進が始まると、日本側右翼(北側)の満州国軍は直ちに敗走し、これによりフイ高地の師団捜索隊は孤立した。ジューコフは、フイ高地の攻略に手間取ったシェフニコフを21日に解任し、予備を投入して日本軍主力の背後へ進撃させた。捜索隊は24日夜に包囲を脱してソ連側主張の国境の外に退出した。21日には南翼でも南方軍の装甲部隊が日本軍の側面から背後を脅かす位置に進出した。
第6軍司令部は攻勢開始時に未だ後方のハイラルにあり、ようやく8月23日に司令部を戦場付近に進めた。
荻洲軍司令官はソ連軍の攻勢を知ると、直ちに第28連隊をハンダガヤから呼び寄せ、これに前線から引き抜いた歩兵第26、72、71の諸連隊をあわせて左翼(南)で反撃(攻勢転位)する作戦を立てた。反撃の開始は8月24日で、ソ連軍の最右翼にある第57狙撃師団第80連隊が、南方軍の装甲部隊とともにこれを迎え撃った。反撃部隊の大部分は予定の日時に攻撃開始位置に到着できず、ばらばらに戦闘に参入し、砲爆撃の支援を欠いたまま正面攻撃を実施した。24日に第72連隊だけで攻撃を行った右翼隊は大損害を出して壊滅した。24、25の両日にわたる左翼隊の攻撃も挫折した。
反撃に兵力を抽出したため、日本軍の側面と背後はがら空きになった。北から回り込んだソ連軍左翼は23日には日本軍の後背に出て、26日にバルシャガル高地の背後にあった砲兵陣地を蹂躙した。南で反撃を退けたソ連軍右翼も、27日にノロ高地を支援する日本軍砲兵部隊を全滅させた。前線の日本軍諸部隊は、背後に敵をうけて大きく包囲され、個々の陣地も寸断されて小さく囲まれた。限界に達した日本軍部隊は、夜の間に各個に包囲を脱して東に退出した。すなわち26日夜にノロ高地の第8国境守備隊が後退し、ついで戦場外に退出した。29日夜にはバルシャガル高地の第64連隊が脱出した。
小松原第23師団長は第64連隊救援のため自ら出撃したが、これも31日朝に後退したのを最後に日本軍は係争地から引き下がり、主要な戦闘は終了した。この作戦の間、ソ連陸軍は自国主張の国境線の内にとどまったため、退出した日本軍諸部隊はその線の外で再集結した。
ノモンハン事件 13
第二次ノモンハン事件
ソ連軍の8月攻勢
日本軍が攻勢をとっていた頃から、ソ連軍は後方で兵力と物資の集積を進め、総攻撃を準備していた。だが日本軍は冬営のための物資輸送にも困難をきたしていたため、大きな増援ができなかった。防衛線についていた日本軍部隊は、北から、フイ高地を守備する第23師団捜索隊、ハイラースティーン(ホルステン)川の北にあるバルシャガル高地を守る歩兵3個連隊(歩兵26、63、72の各連隊)、ホルステン川の南にある第8国境守備隊と歩兵第71連隊であった。加えて、ノモンハンから約65キロ南に離れたハンダガヤに第7師団の歩兵第28連隊があった。その陣地は横一線に長く、兵力不足のため縦深がなかった。防衛線の左右には満州国軍の騎兵が展開して警戒にあたった。
攻撃側のソ連軍は歩兵と砲の数で倍近く、加えて戦車498両と装甲車346両を用意しており、日本側に対して全面的に優勢な兵力だった。
ソ連軍の作戦は、中央は歩兵で攻撃して正面の日本軍を拘束し、両翼に装甲部隊を集めて突破し、敵を全面包囲しようとするものであった。
シェフニコフ大佐が指揮する左翼の北方軍は、第82狙撃師団第601連隊と第7機械化旅団、第11戦車旅団からなり、フイ高地の捜索隊を攻撃して南東に進んだ。
ペトロフ准将が指揮する中央軍は、歩兵4個連隊と1個機関銃旅団(第82狙撃師団の2個連隊と、第36自動車化狙撃師団の2個連隊、第5機関銃旅団)からなり、ハイラースティーン(ホルステン)の両岸で正面から攻撃をかけた。
ポタポフ大佐が指揮する右翼の南方軍は、歩兵3個連隊と機械化旅団、戦車旅団各1個(第57狙撃師団の3個連隊と、第8機械化旅団、第6戦車旅団)からなり、日本の第71連隊を攻撃してハイラースティーン(ホルステン)に向けて北進した。北方軍の北にはモンゴル軍の第6騎兵師団、南方軍の南にはモンゴル軍の第8騎兵師団が付いて警戒にあたった。
左右両翼でのソ連軍の優位は圧倒的で、中央でも火力の優勢を保っていた。
ノモンハン事件 12
第二次ノモンハン事件
砲兵支援下の総攻撃は、7月23日に始まった。
内山少将率いる砲兵団は15センチ加農砲から7.5センチ野砲までの82門をもっていたが、このうち西岸のソ連軍砲兵陣地まで届く砲は46門に過ぎなかったうえに、充分な数の砲弾を準備することができなかった。
更に、東岸より西岸の方が標高が高かったことが致命傷になった。ソ連側の砲兵は日本側の砲兵を見下ろすかたちで砲撃することができたのである。
このため、次第に日本軍砲兵はソ連側の砲撃に圧倒された。またソ連軍は前回の攻撃の末期にあたる7月12日から歩兵の増援を受け取っており、総攻撃はわずかに前進しただけで頓挫した。日本軍は3日間の戦闘で攻勢をあきらめ、冬営に向けた陣地構築に入った。
日本軍は7月25日までに参加兵力の3分の1にあたる約5000人を失った。攻撃を停止した日本軍は、敵の砲撃を避けてハルハ川から離れ、ハイラースティーン(ホルステン)川両岸に西向きに布陣した。北に離れたフイ高地には渡河攻撃を断念したときから小部隊がおかれており、反対の南側の左翼では限定的な攻撃を行って翼を延伸した。ソ連軍も各所で小規模な攻撃を試みたが撃退され、8月20日まで戦線は膠着状態になった。
8月4日、日本軍はノモンハン戦の指揮のために新たに第6軍を創設し、荻洲立兵中将を司令官に任命した。これより先、ソ連は7月21日に第57狙撃軍団を第1軍集団に改組し、引き続きジューコフに指揮をとらせた。
ノモンハン事件 11
第二次ノモンハン事件
7月の戦闘と戦線の膠着
渡河攻撃と戦車攻撃が失敗してから、第23師団はハルハ川右岸(東岸)に転じて7月7日に攻撃を再開した。
第23師団の主力は安岡支隊への増援・交代の形で新たな戦場に到着し、北から南にハイラースティーン(ホルステン)川に向かって進んだ。別に岡本支隊がハイラースティーン(ホルステン)川の対岸を東から西に進んだ。守るソ連軍の中心は第149自動車化狙撃連隊で、砲兵と第11戦車旅団の支援を受けた。歩兵で日本軍が多く、戦車と砲でソ連軍が多いという戦力比はこの時期も変わらなかった。
このときの日本軍は、小規模な夜襲を全戦線で多数しかけて攻撃を進めた。
夜には砲撃が衰え、戦車が最前線から引き上げるので、白兵戦を得意とする日本軍にとって有利であった。少ない兵力で何重もの縦深をとったソ連軍の防衛線は、各所で日本軍の進出を許したが、崩壊には至らず、両軍錯綜の状況が生まれた。
平原で姿を暴露することを恐れた日本軍は、朝が近づくと進出地点から引き上げるのを常とした。昼になると攻守逆転し、ソ連の装甲部隊、砲、歩兵が日本の歩兵を攻撃した。
ソ連軍は夜襲も実施したが、全体的には日本軍に押され、ゆっくりと陣地を侵食されていった。前線指揮官であるレミゾフ第149自動車化狙撃連隊長は8日に、ヤコブレフ第11戦車旅団長は11日に、戦死した。
しかし、当初きわめて楽観的だった関東軍にとって、この作戦の進捗は満足のいくものではなかった。ソ連軍の砲兵力を除く必要があると考えた関東軍は、内地からの増援と満州にあった砲兵戦力をあわせて、関東軍砲兵司令官内山英太郎少将の下に砲兵団を編成し、その砲撃でソ連軍砲兵を撃破することにした。砲兵戦力の到着を待つため、日本軍は夜襲による攻撃を12日に停止し、14日までに錯綜地から退いて戦線を整頓した。
ノモンハン事件 10
第二次ノモンハン事件
ソ連軍は、前回の戦闘と同様、歩兵戦力で日本軍に劣ったが砲と装甲車両の数で勝った。ソ連軍司令部は、ハルハ川東岸への日本軍の攻撃を予想して、第149自動車化狙撃連隊と第9機械化旅団を置いていた。さらに増援軍にハルハ川を渡河させて日本軍の側面を衝く作戦を立て、第7機械化旅団、第11戦車旅団、第24自動車化狙撃連隊が7月1日にタムスクを発った。
ソ連軍と日本軍はほぼ同じ進路で逆向きの渡河攻撃を計画したわけだが、日本軍が先んじて2日に渡河をはじめ、3日に橋を架けた。渡河に直面したのはモンゴル軍の騎兵第6師団であったが、抵抗らしい抵抗をしなかった。ソ連増援軍は3日に戦場に到着し、南に進んでいた日本軍と接触した。装甲部隊を前にして日本軍の行軍は止まった。午前中の戦闘でソ連軍戦車は果敢に突撃して大損害を出したが、午後には遠巻きにして砲撃を加えるようになり、日本兵の死傷ばかりが増えた。第23師団はその日の夕方に撤退を決め、4日から5日にかけて橋を渡って戻った。
ハルハ川東岸(右岸)では、日本軍が87両の装甲車両で攻撃をかけた。主に軽戦車からなる戦車第4連隊は、2日夜に装甲部隊による夜襲をかけた。(大規模装甲部隊による夜襲は世界初で、大変珍しい例である。)攻撃は成功をおさめたが、戦局に影響するほどのものではなかった。主に中戦車からなる戦車第3連隊は、翌3日に防御陣地に対する正面攻撃を行って壊滅し、連隊長吉丸大佐は戦車内で戦死した。ソ連軍は4日に反撃をはじめ、6日に日本軍は退却した。装甲部隊の急速な損耗を憂慮した関東軍司令部の判断によって安岡支隊は9日に解隊され、26日に戦車部隊は戦場から引き上げた。
この期間にはソ連軍の航空勢力が増大した。日本の航空偵察は、この戦闘中ずっと「敵軍が退却中である」という誤報を流しつづけ、上級司令部の判断を誤らせた。
ノモンハン事件 9
第二次ノモンハン事件
日本軍による渡河攻撃と戦車攻撃 (7月1日-6日)
ソ連政府は5月末の交戦を日本の侵略意図の表れとみなし、日本軍の次の攻撃はさらに大規模になると考えた。白ロシア軍管区副司令官のゲオルギー・ジューコフが第57軍団司令官に任命され、この方面の指揮をとることになった。このときジューコフは大規模な増援を要求し、容れられた。
6月17日から連日、増強されたソ連軍航空機が自国主張の国境を越えてカンジュル廟を攻撃し、爆撃は後方のアルシャンにも及んだ。これに対して関東軍は、戦車を中心に各種部隊を増強して反撃する計画を立てた。
新たに加わったのは第1戦車団(戦車2個連隊)と歩兵第26連隊(第7師団)のほか砲兵や工兵を含む自動車化部隊の安岡支隊で、第1戦車団長の安岡正臣中将が率いた。作戦にはハルハ川を越えることが含まれていたが、大本営は越境攻撃までは知らされなかった。
27日、日本軍はモンゴル領の後方基地タムスクに大規模な空襲を行った。大本営は越境空襲を事後に知らされて驚き、昭和天皇を動かして係争地を無理に防衛する必要はないとの大命を29日に発し、敵の根拠地に対する航空攻撃を禁じる参謀総長の指示を出した。
その頃、攻撃のため国境付近に集結しはじめた日本軍に対し、ソ連軍は自国主張の国境を越える威力偵察部隊を送り出して交戦した。
集結を完了した日本軍は、7月1日に敵の背後を断って撃滅する意図をもって行動を起こした。当初の作戦では、ハルハ川に橋を架けて戦車を含む主力が西岸に渡り、敵の背後から包囲攻撃をかけることとされた。しかし、西岸攻撃のために工兵が用意できた橋は演習用の器材を使った貧弱なもので、戦車を渡すことができず、それどころか橋を越えた補給継続の見込みも薄かった。
そこで作戦が変更され、歩兵が西岸に渡って退路を遮断し、東岸に残った戦車が北から攻撃をかけて南下し、敵をハイラースティーン(ホルステン)川の岸に追い詰めて殲滅することを企図した。
西岸攻撃には第23師団の第23歩兵団長小林恒一少将が師団所属の歩兵第71連隊と第72連隊をもってあたり、安岡支隊から引き抜いた自動車化部隊の歩兵第26連隊と砲兵隊、工兵隊が後続した。
うち東を封じるのは満州国軍に任され、今回は南に兵力を送らなかった。
総兵力は約1万5000人であった
北方領土問題 66
ノモンハン事件 8
戦争の経過
ソ連軍も部隊を送り込み、25日にハルハ川東岸に入った。その兵力は、第11戦車旅団に属する機械化狙撃大隊と偵察中隊からなり、装甲車としては強力な砲を装備するBA装甲車16両を持ち、兵力約1200人であった。これにモンゴル軍第6騎兵師団の約250人をあわせ、ソ連・モンゴル軍の総兵力は約1450人、装甲車39両、自走砲4門を含む砲14門、対戦車砲6門であった。歩兵・騎兵の数は少ないが、火砲と装甲車両で日本・満州国軍に勝っていた。
ソ連軍の指揮官は機械化狙撃大隊長のブイコフ大佐で、歩兵の3個中隊のうち第2中隊を北に、第3中隊を南に置き、正面の東をモンゴル軍に守らせて、半円形に突出する防衛線を作った。西岸には第1中隊を控えさせ、砲兵を配した。
山県はソ連軍が刻々増強されつつあることを知っていたが、敵兵力を実際より少なく見積もり、包囲撃滅作戦を立てた。その作戦では、主力は山県が直率して北から進み、東と南には満州軍騎兵と小兵力の日本軍歩兵を配する。ハルハ川渡河点3か所のうち、北と南はそれぞれ両翼の日本軍部隊が制圧する。中央の橋を封鎖するために、東捜索隊が先行して敵中に入り、橋を扼する地点に陣地を築く。
こうして完全に包囲されたソ連・モンゴル軍を破砕し、その後ハルハ川を越えて左岸(西岸)の陣地を掃討するというものであった。
先行する東捜索隊は、5月28日の早朝にほとんど抵抗を受けることなく突破に成功し、橋の1.7キロ手前に陣取った。これとともに後方陣地への航空攻撃、主力部隊の前進がはじまった。戦闘開始直後、ソ連・モンゴル軍は混乱して一歩退いた。攻撃をほとんど受けなかった正面と南の部隊も退却して兵力を抽出し、西岸から渡ってきた部隊とともに山県・東の部隊に立ち向かった。さらにこの日のうちにソ連の第36自動車化狙撃師団の第149連隊がタムスクから自動車輸送で到着しはじめた。
日本軍主力の前進は第一線の陣地を突破したところで停止し、東支隊は孤立した。
29日にソ連・モンゴル軍は東捜索隊への攻撃を強め、その日の夕方に全滅させた。東中佐は戦死した。日本軍主力は30日に小兵力の増援を受け取り、ソ連・モンゴル軍は次の戦闘に備えて防衛線を西岸に移した。以後は目立った戦闘は起きず、日本軍は捜索隊の遺体と生存者を収容して6月1日に引き上げた。ハルハ川東岸は再びソ連・モンゴル軍の制圧下に帰した。
この間、日本軍の戦闘機は終始空中戦で優勢を保ち、ソ連軍の航空機を数十機撃墜し、損失は軽微であった。また、日本の戦闘機と軽爆撃機はモンゴル領内の陣地と飛行場を攻撃した。なおモンゴル軍の航空機はわずかで、満州国軍は航空戦力を持たなかった。