2012/09/10 09:19:41
厚岸(あっけし)の町―近藤重蔵 9
写真は国泰寺付近に出没する鹿!
今年は日本の領土問題が北から南からと大忙しだが、江戸幕府末期
も蝦夷地東方では大きな問題があった。
ロシアの南下政策に対する危機感だった。
現在の北方四島返還問題は1780年まで遡ってしまう。
近藤重蔵(1771―1829)江戸時代後期の幕臣で江戸の生まれ、探検家。
寛政10年(1798)、27歳の若さで松前蝦夷地御用取扱を命じられ、択捉に
ロシアの標柱に代えて「大日本恵土呂府」の標識を立てたことはあまりにも有名。
帰途、日高海岸の道が危険きわまりないことから、私費を投じて道を開き、
翌年には高田屋嘉兵衛をして択捉航路を開かせた。
また、千島アイヌに物品・漁具を与え、日本の風俗を勧め、移住者の促進
と海産物の生産向上に尽くし、文化 4年(1807)利尻巡視の帰途には、
石狩川下流を調査し、蝦夷地の本拠地を石狩の地とすべきことを建議した。
しかし、文政10年(1827)長男富蔵の殺傷事件の責任を問われ大溝藩、
お預けの身となり、波乱の生涯を閉じ、円光寺の塔頭瑞雪院に葬られた。
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