2012/11/17 07:24:12
厚田村(あつたむら) 11
厚田村は明治以降、異色の人物を生んでいる。
全国から移民をしてきた北海道の縮小版ともいえる。 厚田公園に創価学会二代目会長の戸田城聖の生家が保存公開されている。
推理作家の楠田匡介や横綱吉葉山もここで生まれた。
松山善三は「厚田村」で佐藤松太郎を描いたが、家督を継いだ佐藤正男から
奨学資金を得て札幌の北海中学で学んだのが島木健作と和田芳恵だった。 子母沢寛は伊藤整との「道産子対談」の中で、次のように話している。
「北海道特有のものと江戸から持ち込まれたものとが入り混じった2つの
雰囲気が村にはありましたね。ぼくのおやじは漁場を持っていて、そのうえに
宿屋を経営し、さらに東北方面からの出稼ぎ漁夫相手の女郎部屋もやってたようです。
(中略) この老人たちが、江戸のことをなつかしがって話しているのを、はたで聞いて
いたおかげで、江戸など全然関係ない北海道の寒村にいたぼくが、江戸を舞台にした
小説をかけるんですからね」
この老人たちとは、幕末に江戸(上野・彰義隊)で敗れ、箱館(箱館戦争)で敗れて
厚田に逃れてきた7人の江戸の侍たちのこと。
その頭格が子母沢寛の「おやじ」だった。 幕末から明治維新にかけての歴史小説で、子母沢寛の影響をうけなかった人は
いないという。司馬遼太郎もその一人だった。 子母沢寛のふるさと三部作は、
「厚田日記」「蝦夷物語―或る二人の敗走者」「南に向いた丘」明治の厚田村が、語られている。
(写真は鰊番屋で使われていた蠅取り器)
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