2009/04/03 00:39:07
コシャマインの蜂起
『新羅之記録』によれば、康正二年(1456年)から
翌年にかけて、道南地方に居住する和人と、先住のアイヌ
との間に大きな戦争が起きました。
この戦いの発端は、箱館(函館)近くで、和人の鍛冶屋が
アイヌの人を刺殺したことがきっかけとなっています。
しかし、その背景を考えるとアイヌの人たちが居住する
平和な島に、侵入定着した和人が増加し、経済的優位
を誇って館を構え、武力を持ち横暴を強めることに対して、
アイヌの反発が蜂起の原因であると推測されます。
この当時道南地方には12の館(たて)がありましたが、
東部の大族長コシャマインを中心とするアイヌの人たちが
団結し、これらの館を攻撃しました。
各館は次々と落とされ、茂別館(上磯町茂辺地)と
花沢館(上ノ国町勝山)のみが残り、
和人たちは次々とこの二つの館に逃れました。
このとき、花沢館にいた武田信広(松前家の祖)がわずかな兵を率いて進撃し、
上磯町七重浜付近でコシャマイン父子を倒しました。これによりアイヌは敗れ、
松前氏の蝦夷地での発展の基礎が築かれました。
写真の家紋は「蠣崎家・松前家家紋」 丸に武田菱
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