2010/01/30 00:33:31
武田信広(たけだ のぶひろ)
室町時代の武田氏の一族。
若狭国の守護大名であった武田信賢の子。
享徳3年(1454年)8月28日生駒政季を奉じて南部大畑より
蝦夷地に渡り、上ノ国花沢館の蠣崎季繁(かきざき)に
身を寄せた。
その後蠣崎季繁に気に入られてその養嗣子となった。
このとき、蠣崎信広と改めている。
1457年にはアイヌ民族による日本武士の館への
一斉襲撃があり、日本武士団とアイヌ民族の間でコシャマインの戦い
が開戦した。
開戦当初は、奇襲攻撃をくらった日本の武士たちが追い詰められて
いたが、蠣崎季繁のもとにいた武田信広が日本武士たちをまとめ
あげて大反撃に打って出ると、アイヌ軍は次々と敗退し、とうとう
アイヌ軍総大将コシャマインの首も討ち取った。
この功績により武田信広の蝦夷地における地位は決定的となった。
1462年には勝山館を築城している。
1475年に、樺太アイヌの首長から貢物を献上され、樺太を支配下に
置いたとされるが、勢力から考えても実効支配していたとはいえず、
半ば放置されていたといわれる。
1494年6月23日に64歳で死去。
子孫も着実に蝦夷地の平定を進めていき、のち松前氏と改姓して
江戸時代には蝦夷地を支配するに至っている。
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