2009/02/27 00:44:28
函館カール・レイモン
カール・ワイデル・レイモンは、函館の名産品として有名な
ハム・ソーセージの創始者。
「胃袋の宣教師」として知られた。1894~1987年。
ハム・ソーセージの創始者。
「胃袋の宣教師」として知られた。1894~1987年。
ドイツ・ボヘミア地方(現在のチェコスロバキア)の生まれ。
父がハム・ソーセージ作りの職人だった彼は、14歳で自らも
食肉加工の修行を始める。
食肉加工の修行を始める。
後にノルウェーの缶詰会社で働くようになり、アメリカで3年間の研修を行う。
研修を終えて帰る途中、あこがれの日本に立ち寄った。
その1年後の1920年、彼はアメリカの缶詰会社の誘いで函館にやって来た。
研修を終えて帰る途中、あこがれの日本に立ち寄った。
その1年後の1920年、彼はアメリカの缶詰会社の誘いで函館にやって来た。
レイモンは函館の旅館の娘と恋に落ちるが、当時国際結婚は日本では
社会的に認められず、結局レイモンの地元へ駆け落ちする。
社会的に認められず、結局レイモンの地元へ駆け落ちする。
地元ではハム・ソーセージを作り、順調に暮らす毎日。
だが、3年目のある日レイモンは妻に「日本に帰る」と告げる。
だが、3年目のある日レイモンは妻に「日本に帰る」と告げる。
函館に戻り、店を開いたレイモンと妻コウ。だが、時はまだ大正14年。
誰もハムやソーセージを知らず、まったく売れなかった。
誰もハムやソーセージを知らず、まったく売れなかった。
その後も精力的に生産を続けたレイモンだが、昭和13年に工場の実質的な
強制接収を受けてしまう。
強制接収を受けてしまう。
太平洋戦争中は外国人として言われなき迫害も経験した。
終戦後の昭和23年、レイモンは函館市元町でハム・ソーセージ作りを再開。
手作業でドイツの伝統製法を守り続ける彼のハム・ソーセージは
地元で高い評価を受けるようになっていく。
地元で高い評価を受けるようになっていく。
手作りで大量生産できないため販売店に入荷する日が限られており、
「お店にレイモンのハム・ソーセージが入荷する日を楽しみにしていた」と
当時を思い出す市民も少なくない。
「お店にレイモンのハム・ソーセージが入荷する日を楽しみにしていた」と
当時を思い出す市民も少なくない。
「胃袋の宣教師」として愛されたレイモンは、1987年に93歳で死去。
彼の教えと味は弟子に受け継がれ、「カール・レイモン」のハム・ソーセージは
肉本来のおいしさを時間と手間をかけて引き出す伝統製法で今も作り続けられ
函館の味として親しまれている
肉本来のおいしさを時間と手間をかけて引き出す伝統製法で今も作り続けられ
函館の味として親しまれている
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