2009/02/24 00:40:17
湯の川温泉
1653年(承応2年)、松前藩主九代・高広(幼名 千勝丸)が
重い病気にかかり、治療も薬も効果なく、その病は日に日に
悪化していきました。
重い病気にかかり、治療も薬も効果なく、その病は日に日に
悪化していきました。
ある夜、母の清涼院は「松前城の東にある温泉に行けば、
どんな病も治る」というお告げを夢で見ました。
どんな病も治る」というお告げを夢で見ました。
この夢で見た温泉こそ湯の川温泉でした。
その温泉に千勝丸を湯治させると、まもなく全快したといいます。
その温泉に千勝丸を湯治させると、まもなく全快したといいます。
藩はそのお礼に、翌年、薬師堂を再建し、鰐口を奉納しました。
これが湯の川温泉の発祥と言われています。
文久3年頃(1863年)、100度Cの多量の湯が湧き出て、温泉宿ができました。
箱館戦争の終わり頃には、旧幕軍の総裁・榎本武揚が250名の傷病兵を湯治。
湯の川の隣町「榎本町」は彼の名にちなんだもの。
明治9年頃、福井県出身の石川藤助が100度C以上の効能すぐれた
温泉を掘り当て、明治19年に湯治場を開く。
この頃から入浴客が増え、料理店、宿、小売店などが建ち並び、
湯の川は賑わい始める。
温泉を掘り当て、明治19年に湯治場を開く。
この頃から入浴客が増え、料理店、宿、小売店などが建ち並び、
湯の川は賑わい始める。
移住者が増え、別荘が建ち、明治20年には新道(今の電車通)も開通し、
湯の川は保養地、避暑地として栄えることになる。
湯の川は保養地、避暑地として栄えることになる。
湯の川は海あり、山あり、温泉あり、と景色が素晴らしく、当時「湯の川八景」と
呼ばれるほどの景勝地として親しまれていた。
その後、北洋漁業の隆盛と共に賑わい、昭和20年頃まで「函館の奥座敷」と称されていた。
呼ばれるほどの景勝地として親しまれていた。
その後、北洋漁業の隆盛と共に賑わい、昭和20年頃まで「函館の奥座敷」と称されていた。
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