西田 信一(にしだ しんいち)
1902年10月15日– 2003年4月10日
昭和の政治家(参議院議員3期)。
元北海道開発庁長官・科学技術庁長官。
1972年勲一等瑞宝章受章。苫小牧市名誉市民(1988年)。
空知郡岩見沢町(現・岩見沢市)に、鉄道員・西田栄次郎の長男として生まれる。
両親はいずれも富山県の人。
高等小学校卒業後、郵便局員、鉄道員を経て、札幌工業学校(現・札幌工業高等学校)に入学する。
札工生時代、心臓肥大症に罹り療養中、”逆療法”とばかりにアイススケートに打ち込んで完治させた。
以来スケートをはじめとするウィンタースポーツとの縁ができる。
1924年札工を卒業後、苫小牧工業学校助教諭を経て、1928年苫小牧町役場に入職する。
仕事の傍ら王子製紙アイスホッケー部のコーチも務め、1932年には全日本選手権大会で
初出場・初優勝の快挙を成し遂げた。
土木課長、助役を経て、1946年町長に就任する。
1947年北海道議会議員に当選。2期8年務める。
田中敏文革新道政批判の急先鋒として鳴らした。
1956年、前年の道議選で落選し浪人中であったが、地元選出代議士の篠田弘作の助力を得て
自由民主党公認を獲得し、第4回参議院議員通常選挙に北海道選挙区から立候補し当選を果たす。
以後連続当選3回。
党内では石井光次郎派-宏池会に所属する。
行政管理政務次官、党副幹事長、党参院政策審議会長を歴任、また札幌オリンピック誘致に尽力した。
1970年第3次佐藤内閣で国務大臣(科学技術庁長官・北海道開発庁長官・原子力委員長・
札幌オリンピック担当大臣・宇宙開発委員長)として入閣。
科技庁長官として海洋科学技術センター(現・海洋研究開発機構)法案を成立させている。
1974年参院選では保守系候補の乱立のあおりを受け落選、政界を引退する。
苫小牧町職員時代より取り組んできた、苫小牧港・苫小牧東部工業港の建設を推進し、
同市の港湾・工業都市としての発展に貢献した。
また自身も1960年苫小牧埠頭を設立して社長となり、地元随一の有力企業に育て上げた。
スポーツ界においても活躍し、1968年にはグルノーブルオリンピックの日本選手団長を務め、
また日本スケート連盟副会長・北海道アイスホッケー連盟会長等の要職を歴任した。
2003年4月10日、心不全により死去。享年100。
箕輪登(みのわ のぼる)
1924年3月5日- 2006年5月14日
自由民主党所属の元衆議院議員(旧北海道1区選出、8期)
鈴木善幸内閣改造内閣の郵政大臣。
小樽市生まれ。小樽市中学(現小樽市立長橋中学校)、
1945年3月に北海道帝国大学(現・北海道大学)医学専門部を卒業後、
陸軍軍医見習士官となり終戦を迎える。
1946年、日本医療団寿都病院(現在の寿都町立寿都診療所)に外科医長として赴任する。
1948年、寿都町に箕輪外科医院を開業する。
小樽に戻り、1952年、稲穂で箕輪外科医院を開業する。
松川嘉太郎(北海道中央バス第2代社長)、唯是日出彦(ジャーナリスト、漫画家。
北海道中央バス顧問)らと親交を深める中、薄田美朝(警視総監→衆議院議員)に見出され、
1960年の総選挙に保守系無所属で挑戦。
しかし、当時の旧・北海道1区(札幌市、小樽市など)には椎熊三郎、寿原正一、
高田富與(元・札幌市長)ら自民党現職がおり、落選する。
1962年、佐藤栄作(当時・北海道開発庁長官)の秘書兼医師となる。
1967年、自民党公認を得て衆院選に再び出馬。
当選を果たし、佐藤派に属する。以降、連続8回当選し23年間衆議院議員を務めることとなる。
1972年の佐藤派分裂後は、田中派に所属する。1972年に、防衛政務次官に就任する。
1980年党副幹事長、1981年に郵政大臣(鈴木内閣)となり、衆議院安全保障委員会委員長など
の要職を歴任する。防衛族とみなされ、「タカ派」として知られていた。
北海道新幹線の計画推進にも熱意を傾けた。
金丸信(自民党副総裁)が主宰した「日本戦略研究センター」の理事長も務めた。
しかし、創政会結成時に当初はメンバーに名前を連ねていたが、切り崩しに会うとマスコミに金丸の
名前を出して入会を止めたため金丸の怒りを買い、出入り禁止となった。
1987年、自民党北海道支部連合会(道連)会長在任時に行われた北海道知事選挙で、
元・農水官僚の松浦昭を擁立するが、大差で敗北。道連会長を辞任する。
脳梗塞を患い、1990年に政界引退。リハビリで言語障害を克服する。
その後は、地元の小樽で私立病院の顧問を務めた。
2004年には、イラク派兵反対運動で注目を浴びる。
2004年1月28日に、国を相手に憲法違反として、札幌地裁に提訴する。
自衛隊イラク派兵差止北海道訴訟である。
2005年3月28日提起の二次訴訟の原告には、日本社会党代議士だった竹村泰子、
日本共産党代議士だった児玉健次、市民運動活動家の花崎皋平、様々な政治的立場の人が加わる。
訴訟への賛同者を募るため、精力的に全国各地へ赴き、講演・執筆活動を行なっていた。
イラク日本人人質事件では、犯人グループに対し「私が身代わりになってもよい、3人を解放せよ」と
呼びかける声明を出した。また、「自己責任論」に反論し、人質となった3人をかばった。
2006年5月14日、肺炎のため札幌医科大学付属病院で死去する。
2007年11月19日、「箕輪訴訟」との別名もある「自衛隊イラク派兵差止北海道訴訟」は、
札幌地裁で原告の訴えを退ける判決が下される。札幌高裁に控訴中である。
地崎宇三郎 (二代)
(ちざき うさぶろう・にだい)
1897年1月2日- 1951年6月29日、日本の政治家、実業家。
札幌市出身。秋田鉱山専門学校中退。
1919年に独断で大農法を試み失敗。勘当され各地を放浪したという。
その後北海道に戻り、小樽市にて小樽定山渓自動車道株式会社を設立して小樽-定山渓間の有料道路構想を立てた。父の支援によって後の北海道道1号小樽定山渓線にあたる道路を完成させ、バス運行を始めた。
1936年に父が没すると地崎組社長を相続し二代目宇三郎を襲名。
小樽新聞社社長も兼任して同社の再建に成功、北海タイムスとの統合も実現させた。この頃、「間宮海峡埋立論」を唱えていたという。
1939年札幌土木建築業組合副組合長、1941年北海道土木建設業協会副理事長。
さらに長男地崎九一を地崎組代表取締役社長に据えた。
終戦後は政界に入り北海道政治同盟を結成。1946年北海道から衆議院議員選挙に出馬して当選。進歩党(後の民主党)に所属し、野党連立のために奔走、1947年片山内閣成立の影の立役者と言われた。民主党幹事長になるも、その5日後に公職追放。
1947年~1951年まで地崎組代表取締役会長になり、晩年は東京で過ごした。
地崎 宇三郎(ちざき うさぶろう)
1919年7月21日- 1987年11月11日
政治家、実業家。札幌市出身。旧制小樽中学卒業、立命館大学経済学部中退。
3代目地崎宇三郎は、かつて北海道を代表するゼネコンであった地崎工業の前身、株式会社地崎組の3代目社主(オーナー社長)。
1943年に父の2代目宇三郎から地崎組社長を継承し、1973年に地崎工業と改称、1981年に長男の地崎昭宇に社長の座を譲った。
父追放直後の1947年の第23回衆議院議員総選挙に出馬するも選挙戦途中で辞退した。
1963年、第30回衆議院議員総選挙に旧北海道1区より出馬し、初当選。
自民党に所属し、1969年には石田博英、宇都宮徳馬、山口敏夫らと石田派を旗揚げするが、派閥の維持が困難となり1971年に石田博英らと共に三木派に合流した。
1979年、自民党内で2人の首班候補が争ったいわゆる「四十日抗争」では、福田赳夫を推す三木の意向に反して大平正芳に投票し、三木派を離脱。
直後に成立した第二次大平内閣で運輸大臣に就任。
1983年に政界から引退するまで連続7期当選していた。
また、北海タイムス会長、日刊スポーツ北海道本社社長、札幌大学理事長も務めた。
1987年11月11日、腎不全のため死去。享年68。
1919年~ 日本の政治家
中川郡池田町長、参議院議員(2期)などを歴任した。
北海道中川郡池田町出身の政治家である。
1942年、明治大学大学専門部法科を卒業。十勝日日新聞の編集長を務める傍ら農民運動に携わり、日本社会党に入党した。
1957年、37歳の若さで池田町の町長に初当選。1957.5-1976.10(5回)
北海道で唯一の社会党町長として話題を集めた。
1977年に第11回参議院議員通常選挙に当選し国政に転出し、町長時代同様に日本社会党に属した。2期12年務めた後、1989年政界から引退した。
業績
丸谷金保の池田町長としての最大の業績は、十勝ワインを開発したことである。
生産・加工から販売まですべて地域住民と自治体が主体となって手がけ、外部資本の介入を許さない姿勢を貫いた。十勝ワインの開発への町をあげての取り組みは、今日では一村一品運動の元祖とみなされている。
甘く加工したワインが出回っていた当時の日本にあって本格的な辛口ワインである十勝ワインは1960年代までは「こんな酸っぱい酒が飲めるか」「税金で、まずい酒作ってどうする」等と非難されたが、1970年代に入って日本の食卓でも洋食が一般的になると高く評価されるようになり、売り上げも伸びた。この頃、東京にも十勝ワインと牛肉のレストランを開設し話題を呼んだ。
この業績により、丸谷は「ワイン町長」の愛称で親しまれるようになった。
丸谷はその後中央政界に転出するが、政治家として最も活躍したのは5期20年の池田町長時代だったといえる。
大正5年2月13日生まれ。昭和46年から5期20年にわたり札幌市長をつとめる。
札幌冬季五輪,北方都市会議,冬季アジア大会,ユニバーシアード冬季大会の開催に尽力し,国際都市札幌の評価をたかめた。平成5年8月12日死去。77歳。北海道出身。東京帝大卒。
1971年、初当選の第7代札幌市長。上川郡和寒町出身。
小学校のとき札幌に移る。山鼻小、札幌一中(現札幌南高)、旧制第一高等学校、東京帝国大学法学部卒業。三菱電機入社。
1946年札幌市役所勤務。1971年より札幌市長。5期20年にわたって務める。
この間、地下鉄の開通、政令指定都市への移行があった。
また、アジアで初めてとなった冬季オリンピックの開催による遠大な都市基盤の整備は20年先取りしたと言われるほどのものであった。
略歴・業績
1950年 札幌市経済部長
この年、第1回さっぽろ雪まつり開催。「当時の札幌は、まだ敗戦のショックが色濃く残っており、食料や燃料の不足な時だった。市全体の暗いムードを吹き飛ばし、少しでも明るい感じにもっていくためにはどうしたら良いか。それが市政の課題とも言える時代だった。そんなころ、映画館で見たニュースに、小樽あたりの子供が校庭の雪を固めて、ナタやノコギリで刻んで小雪像を作っているものがあった。私が学んだ札幌一中の雪戦会と雪像を結びつけたらどうだろうか」
1971年 札幌市長に初当選
1971年 札幌市営地下鉄開通(ゴムタイヤ方式地下鉄の導入)
1972年 第11回オリンピック冬季札幌大会開催
1972年 政令指定都市移行・区制施行
1981年7月24日 「こぐま座」(全国初の公立人形劇場)オープン
ミュンヘン(札幌市の姉妹都市)にある市立人形劇場や小屋がけの人形芝居を見て、札幌にも夢のある施設を造ろうと発案し、「こぐま座」を完成させる。
1982年 北方都市会議を提唱
1984年 札幌市交通事業振興公社設立
1987年 田村正敏に圧勝し5連続当選
1990年 第1回パシフィック・ミュージック・フェスティバル(PMF、レナード・バーンスタイン提唱の若手音楽家研修会・発表会)開催
1991年 第15回ユニバーシアード冬季札幌大会開催
1991年 市長を退任
日本のアイヌ文化研究者であり、彼自身もアイヌ民族である。
アイヌ文化、およびアイヌ語の保存・継承のために活動を続けた。
委員会において史上初のアイヌ語による質問を行ったことでも知られる。
世界先住民族ネットワーク・AINU代表、FMピパウシ運営者、
世界先住民族サミット2008の実行委員会最高責任者。
当時すでにアイヌ語を自在に操れる話者は少なくなっていたが、
アイヌ語を完全に母語とする祖母に育てられたため、アイヌ語と日本語、
2つの言語を母語として身につけた。青年期はアイヌであることから逃避するため
に出稼ぎに出て、炭焼きや測量士などで生計を立てる。
自ら収集記録し始める。50年かけて集めた1121点はのちに重要有形民族文化財の指定を受ける。
その内容は姫田忠義監督により記録映画「アイヌの結婚式」として残された。
その様子は、やはり姫田監督により「チセ・ア・カラ(われら・家を・つくる)」として映画化。
これは日本で初めてのアイヌ語での映画であった。
その模様はやはり姫田監督により「イヨマンテ 熊おくり」として残された。
(この時は次点で落選)。
しかし「国はアイヌ文化に対し最大限の配慮をしなければいけないのに、それを怠った」と
ダム建設を違法とし、アイヌ民族を先住民族と認める判決を勝ち取った。
息子の萱野志朗が同年参院選に社民党から出馬するも落選している。
学位請求論文は「アイヌ民族における神送りの研究―沙流川流域を中心に」。
札幌市東区の病院で逝去、享年79。