「北海のヒグマ」との愛称で親しまれた異色の政治家・中川一郎の記念館。
自由民主党総裁選に立候補して破れた後3か月もたたない1983年1月に、突如57歳で早世。
1925年(大正14年)に北海道に生まれた中川一郎は、十勝農業学校、宇都宮高等農林、九州帝国大学農学部(農業土木)で学び、父の悲願どおり北海道庁で役人生活を始めるが、酒の飲みっぷりがいいという理由で、北海道開発庁長官になった党人政治家・大野伴睦(1890-1964年)の秘書になり、大野を生涯の師とする。
その後、緒方竹虎長官の秘書もつとめ、政治への志を持つ。
12年間の役人生活を経て第30回総選挙に立候補し当選する。
中尾栄一、浜田幸一、石原慎太郎、渡辺美智雄らとともに31人で1973年に青嵐会を結成し、事実上のリーダーである代表世話人をつとめる。
その後、1979年に自由革新同友会を22人の同志とともに結成、これが事実上の中川派の旗揚げとなる。
福田赳夫総理のもとで農林水産大臣として日ソ漁業交渉をまとめ、そして科学技術庁長官(鈴木内閣)で原子力発電に力を入れている。
13人という小派閥を率いる中川一郎は、1982年10月16日自民党総裁選に立候補する。
このとき立候補したのは、中曽根康弘、河本敏夫、安部晋太郎と中川一郎の4人である。
河本、安部、中川の反主流三派連合の成立で予備選実施を避けられないと判断した鈴木首相は、退陣を表明し中曽根行革長官を後継者に指名し、田中、鈴木、中曽根の主流三派は中曽根康弘を候補に一本化する。結果は派閥の締め付けがあり予備選で安部にも及ばず4位となる。
同志であった石原慎太郎は、中川の「魅力は結局可愛らしさだったと思う」と評している。
中川一郎の座右の銘は、「真実一路」である。親孝行でも有名だった。またよく歌う唄は「星影のワルツ」で「仕方がないんだ、君のため」の君を国に置き換えて歌っていた。北海道出身の横綱千代の富士の後援会長でもあった。
記念館から天馬街道を走ったところに「中川一郎農林水産大臣生誕の地」という碑が建っている。
黒地に白抜きで書かれている字は広尾町長の泉耕冶氏の書いたもの。この碑の建立にあたって寄付をした人と名前が脇に書いてあった。5万円が11人、3万円が2人、2万円が3人、1万円が17人とあったから、合計で84万円になる。