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旭川市
354,559人(人口、2009年3月31日)
 
旭川市(あさひかわし)は、上川支庁の所在地。
平成12年4月1日に中核市に指定。
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14世紀前後にアイヌ文化が形成されたが
上川もその文化の担い手であるアイヌの人たちの世界であった。
18世紀になって、北海道の重要性に注目した当時の徳川幕府
この地に多くの探検家を送り込んだ。

 明治2年に北海道を統括する開拓使が設けられ、蝦夷地を北海道
と改称して、11国86郡の行政区画が設定され、上川盆地一体は
石狩国上川郡となった。

 当時の上川は強風もなく、高燥平坦な肥沃な大地があり、
幾数十年も移出できる樹木や試作した穀菜類の成育がすぐれているという
報告に強い印象を受けた司法大輔、岩村通俊卿は、
明治18年に永山武四郎(屯田兵本部長)とともに近文山に上って国見を行い、
この地に「北京を置くの議」を、明治15年に続き再び政府に提出した。

 明治22年には岩村長官の後任となった第二代北海道長官永山武四郎の建議
に対して、当時の宮内大臣から総理大臣に
「上川郡のうちに他日一都府を立て、離宮を設けるよう仰せいだされ候」との宣達
が出されたが、計画は日の目を見ることなく、歴史の中に消え、今も幻の上川離宮
を物語る碑が建っている。

 地名の由来については、忠別川のアイヌ語で「チュプ・ペッ」を語源にしている説が
よく知られている。
「チュプ」は「日」の、「ペッ」は川の意味で、「日」を「旭」に置き換えて「旭川」と意訳
して名付けたと言われているが、諸説があって定かではない。
明治23年9月20日に上川郡に初めて旭川村、永山村、神居村の3村が置かれ、
明治24年から開発の尖兵として屯田兵が入植し、旭川は上川の中心として開拓が進められた。

 明治31年には鉄道が開通、明治33年には旭川村から旭川町に改称され、
札幌から第7師団が移駐するなど、産業・経済の基盤が成立し、道北の要としての使命
を担ってきた。
さらに先人たちの偉大な努力により大正11年8月市制施行、昭和30年から近隣町村
との合併が進み、昭和45年に人口30万人、昭和58年には人口36万人を超え、
北海道では札幌に次ぐ第2の都市となった。
 
 
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2008年8月7日。 日本の一番東にある根室から出発します!
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