北海道の歴史を刻んだ人々
文政13年2月18日(1830年3月12日)
- 大正元年(1912年)10月15日)
幕末から明治時代の蘭方医。
1830年(文政13年)、上総国(現在の千葉県東金市)東中の農家の子として生まれる。
養父の儒家関俊輔に薫陶され、長じて佐倉順天堂に入り、佐藤泰然に蘭医学を学び、
26歳の時銚子で開業。
豪商濱口梧陵の支援で長崎に遊学、オランダ人医師ヨハネス・ポンペ・ファン・メーデル
フォールトに最新の医学を学び、銚子を去って徳島藩の典医となる。
戊辰役には官軍の奥羽出張病院長として、敵味方の別なく治療に当る。
信ずるところあって徳島に帰り、一町医者として庶民の診療、種痘奉仕などに尽力し
、「関大明神」と慕われる。
1902年(明治35年)、72歳にして一念発起し、原野だった北海道陸別町の開拓事業に
全財産を投入し、広大な関牧場を拓く。
のちにこの土地を開放し、自作農創設を志すが果たせず、1912年(大正元年)82歳にして
服毒により自らの命を絶つ。
米村 喜男衛(よねむら きおえ)
北海道網走市 1892~1981
郷土史家、考古学研究家。
1912年にアイヌ民族の研究のため来道し、翌年モヨロ貝塚を発見。
縄文・アイヌ文化とも異なる「オホーツク文化」を世界に紹介した。
発掘調査が進むにつれ、その内容の豊富なことから「西の登呂」に対して「東のモヨロ」と呼ばれる。
1928年、自室に資料陳列室を開設、後の網走博物館となる。
1946から1971年まで網走博物館長。
司馬遼太郎、金田一京助など一流の作家や研究家とも親交が深く、また敬愛されていたという。
書には『モヨロ貝塚資料集』『熊まつり』『モヨロ貝塚』などがある。
道文化賞、道新文化賞、道開発功労賞受賞。網走市名誉市民。
蠣崎波響(かきざき はきょう)2
寛政元年(1789年)のクナシリ・メナシの戦い(寛政蝦夷蜂起)で
松前藩に協力したアイヌの酋長を描いた『夷酋列像』(函館市立図書館
に2点所蔵。1980年代にフランスのブザンソン市立美術館で「夷酋列像」
11点が発見)を翌年冬に完成させ、これ後に彼の代表作となる。
寛政3年(1791年)3月に同図を携え上京、『夷酋列像』は京都で話題となり、光格天皇の天覧に供され、絵師波響の名は一時洛中で知られた。
この時、円山応挙についてその画風を学び以後画風が一変する。
文化4年(1807年)、幕府が北海道を直轄地にしたため、松前藩は陸奥国伊達郡梁川に転封され、
波響も梁川に移った。
文政4年(1821年)松前藩が復帰すると、波響も翌年松前に戻り、文政9年63歳で没した。
画人では円山・四条派の円山応挙、岸駒、松村呉春、皆川淇園等と、文人では漢詩人菅茶山や六如、橘南谿、伴蒿蹊等と生涯を通じ交流があった。
また木村兼葭堂を通じ、大名家では増山正賢や松浦静山等と交流した。
京都をたびたび訪れ、松前藩家老であり、温和な性格で社交的な波響は歓待された。
森鴎外が『伊達蘭軒』で、波響を紹介している。
地元では度々展覧会が催されたが、全国的に知られたのは中村真一郎『蠣崎波響の生涯』からで
ある。自筆資料は函館市立図書館に所蔵されている。
蠣崎波響(かきざき はきょう)1
宝暦14年5月26日(1764年6月25日) - 文政9年6月22日(1826年7月26日)
日本の画家、松前藩の家老。松前藩第12世藩主松前資廣の5男。
13世藩主道廣は異母兄。
母は松前藩家臣長倉長左衛門貞義の娘・勘子。
別号に梅香舎、梅痩舎、柳民舎、滄岡軒などがある。
生まれた翌年に父が亡くなり、兄が跡を継いだため、家禄五百石の家老蠣崎家の跡継養子になる。幼い頃から画を好み、8歳の頃馬場で馬術の練習を見て、馬の駆ける様を描いて人々を驚かせたと伝えられる。
叔父の松前広長は波響の才能を惜しんで、安永2年(1773年)に江戸に上がらせ、南蘋派の画家・建部凌岱に学ばせた。間が悪く翌3年に凌岱が亡くなると、師の遺言に従い宋紫石に師事。
天明20年(1783年)20歳の時松前に戻り、この年の冬から大原の呑響が約一年松前に滞在し、以後親交を結ぶ。波響と号したのはこのころからである。
伊達邦直(だて くになお)4
当別への移転は1872年(明治5年)を予定し、邦直は岩出山に戻り
再度移住者を募った。
第2回の移住者は182人で第一陣と合流し当別の開拓に当たった。
1879年(明治12年)の第3回移住者は250人に及び、これも邦直が
募集に当たった。
また、この年当別では新たに戸長を設ける事となり元家老の吾妻謙
が就任する。
開拓使当別詰所設置に伴い邦直は
同年7月に開拓七等属・開拓使勧業課当別在勤を命ぜられる。
1881年(明治14年)2月26日准陸軍少尉に任命され、3月には開拓七等属兼務となり従六位に叙せられる。
1882年(明治15年)には所属が陸軍省となり、1885年(明治18年)5月陸軍屯田兵少尉になる。
以後も各開墾地の見分を行うが、1891年(明治24年)1月逝去する。子の基理も同年5月逝去。
翌年8月旧臣等が内務省に阿蘇神社(後の当別神社)創建を願い出て、邦直が祀られる事となる。
同年10月には孫の正人が邦直の北海道開拓に掛る功績により男爵を授けられ華族に列せられた。
1915年(大正4年)11月には邦直に正五位が追贈される。
1940年(昭和15年)、皇紀2600年を記念し北海道開拓神社に合祀される。
伊達邦直(だて くになお)2
明治維新の際に奥羽越列藩同盟に参加した宗藩の命により、官軍と
交戦した。
山形で勝ち戦功を上げたが、味方の多くは官軍に下った為戦に敗れる。
戦後、それまで一万四千石あった禄高を六十五石に減封され、城は召
し上げられ家臣の士分を剥奪された。
侍ではなくなった家臣達は帰農を命ぜられたが、邦直は彼等が路頭に迷う事を
憂い、私財を処分し得た資金で新政府の推し進めていた北海道開拓を志願する。
願は許され1869年(明治2年)石狩国空知郡の支配を命ぜられた。
しかし、この空知郡は内陸部に位置し物資の輸送等が困難であったことから海岸
近くへの移転を申し入れた。
叶わず再度家老の吾妻謙が太政官に申し入れたところ、今度は不届きを理由に吾妻が自宅謹慎を命ぜられる始末であった。
その年の12月、邦直は家臣に命じ現地を調査させ、その結果を元に翌年自ら北海道に渡り調査を行った。
政府から指定された入植地は極めて大雑把な指定であって具体的に何処を開拓するかは現地機関である開拓使との交渉が必要だった。
1912年(大正元年)12月20日-2003年(平成15年)4月24日)
昭和期の作曲家。根室市出身。
初め、独学で作曲を学ぶ。根室商業高校卒業後上京し、作曲を池内友次郎、指揮を山田和男に師事する。
同じ根室出身の高橋掬太郎と組み、「啼くな小鳩よ」、「ここに幸あり」などを作った。
故郷を愛し、交響組曲「北国讃歌」等、根室に関連する曲を数多く作った。
根室市図書館には飯田三郎資料展示室がある。
第45回日本レコード大賞特別功労賞
『啼くな小鳩よ』『かりそめの恋』『ここに幸あり』など、豊かな曲調の流行歌を数多く作曲し、一方池内友次郎に作曲理論、山田一雄に指揮法を師事されてクラシック音楽に造詣を深められ、交響詩交響組曲等を発表。
映画音楽にも積極的に取り組まれ、第一線で活躍された功績は日本の音楽史上忘れることのできない存在である。2003年4月の逝去を惜しむとともに数々の功績を称え、ここに第45回日本レコード大賞特別功労賞が贈られた。
代表曲
クラシック作品
合唱と管弦楽による交響的叙事詩「サルオロ(大湿原)」(釧路湿原国立公園制定記念作品)
自ら指揮した録音がキングレコードよりCD化された事がある。
演奏:ロイヤルフィル(国内の臨時編成楽団)、合唱:東京ソフィア混声合唱団、三味線:千藤幸蔵
交響曲「北海道」
アイヌの旋律によるピアノと管弦楽のための「アラベスク」
幻想曲「沖縄諸島風物詩」
交響的ルンバ「南の誘惑」
管弦楽「バリ島」組曲
ピアノと管弦楽のための「スレンドロとペロッグ」
オラトリオ「えぞキリシタンの殉教」
石川啄木歌曲集
北国讃歌(昭和43年)[飯田三郎作詞]
映画音楽
『台風息子』(昭和33年、小石栄一監督、東映作品)
大衆歌謡
『啼くな小鳩よ』(昭和22年1月)[高橋掬太郎作詞、歌:岡晴夫]
『かりそめの恋』(昭和24年9月)[高橋掬太郎作詞、歌:三条町子]
『東京悲歌』(昭和26年11月)[高橋掬太郎作詞、歌:三条町子]
『ワンダフル娘』(昭和27年9月)[上田たかし作詞、歌:江利チエミ]
『ここに幸あり』(昭和31年5月)[高橋掬太郎作詞、歌:大津美子]
『山陰の道』(昭和31年11月)[高橋掬太郎作詞、歌:若原一郎]
『丘にのぼって』(昭和32年9月)[高橋掬太郎作詞、歌:若原一郎]
『夜霧の滑走路』(昭和33年7月)[作詞横井弘、歌:三船浩]
『小樽の赤い灯が見える』(昭和36年3月)[作詞内村直也、歌:三船浩]
また、北海道の気候に適合した農作物の発見に努めた。
なお、1886年に建設された中島競馬場はダンの設計に基づいて建設されたものである。