2012/02/16 10:56:44
明治維新後、新政府は次々と北海道開拓に対して
対策が打たれていきます。
明治2年6月17日、274大名から版籍奉還が行われ土地と
人民は政府所轄となっていましたが、実態は江戸時代と同じでした。
新政府は、ばく大な経費を必要とする開拓事業を分領支配
(北海道を11カ国86郡に分割)による開拓方法をとることになりました。
この制度は、簡単に言えば殿様が城を召し上げられ家臣の士分を
剥奪され、約2万石から50石まで落とされた士族に対する救済策で
もありました。
北海道の新天地で未開拓の土地を開いたら、その土地をあげますと
いう触れ込みです。
但し、この制度は明治4年に制定された廃藩置県で脆くも話が壊れ
てしまいます。
しかし、出願した士族の移住が始まります。
明治3年仙台藩士の移住は、
明治14年までの約10年間に、岩出山藩612人、亘理藩2,648人、
角田藩278人、白石藩851人、柴田藩123人
の合計4,512人もの人が移住しました。
今でも、この歴史が郷土資料館などに残っております。
町は石狩郡当別町、伊達市、室蘭市、登別市、札幌市白石区・手稲区、栗山町などです。
それぞれに壮絶なドラマがあります。
(写真は、当別に入植した仙台藩岩出山支藩を書いた小説「石狩川」の本庄睦男の文学碑)
PR