北海道の歴史を刻んだ人々
菅野豊治(すがのとよじ)3
土を愛し、農業の大切さを訴えたスガノ農機創業者
(菅野豊治を語る 原作者 金子全一 発行スガノ農機株式会社より)
都府県の農家は耕地(こうち)面積がせまく、次男・三男は、
独立するにも田や畑をつくる土地がありません。
そのこともあって*満州への満蒙(まんもう)開拓は、国をあげた
大事業で進んでいました。
現地では、畜力農法が従来から行なわれていて、クワで耕す
都府県のやりかたは、厳しい寒さの広野では能率が悪く
、作業がいっこうに進みませんでした。
国は「北海道の畜カプラウ農法でなけれぱ開拓が遅れる」と方針を変更し、
北海道の篤(とく)農家200戸を満蒙開拓団のそれぞれの団長にして、
満州に渡らせました。そして、畜カプラウ農法は大成功しました。
プラウの出荷要望に豊治は、何回も満州に行きました。
ある日、大量の受注をもらってきた豊治は、国の大事業と考えて
「上川支庁管内のすべての業者で製作をしよう」と決断し、業者に声をかけました。
その当時は小さな工場が多く、中には修理専門だけでプラウ製作の経験がない工場もありました。
豊治は、プラウ製作の経験がない人には、豊治の工場を開放して作り方を指導しました。
できあがったプラウは豊治が責任をもって検査し、「上川号」と名前をつけて満州へ出荷しました。
1941(昭和16)年の春、
日本および満州政府の推奨(すいしょう)により菅野農機具製作所は
満州開拓の移駐(いちゅう)工場として、10人の従業員とその家族と共に、
満州に骨をうめる覚悟で吉林市(きちりんし)に渡りました。
その出発近くに豊治は、お客に売った品物の代金を
『いままでお世話になった』という感謝の気持ちで、ゼロにし、貸し借りをなくしました。
満州では、国の政策にしたがってプラウを専門に造るために、
奥行25間(けん)のレンガ造りの大きな工場を、いくつも建てました。
豊治は、仕事になれない満州人に技術を教えていましたが、その人たちに
貴童な材料を盗まれてしまうこともありました。
しかし、豊治はそんな苦難にもたえながら100人以上の満州人を使い、
やがて1日に50台の畜カプラウを出荷するまでに発展させました。
毎日、プラウの引き取り場所には長い列ができ、とても注文に応じきれない
ほどに繁盛(はんじょう)染ました。
8.厚い信用
この時、政府のすすめで北海道から19工場の鍛冶屋(かじや)が満州に渡りました。
しかし、生産はなかなか軌道にのらず、生活が苦しくなり、しかたなく材料を売ってしまう会社もありました。
豊治は、いつも開拓農民によい製品を約束通りに渡すという使命感に燃え、
たとえ何倍も高い値段で買いにきても、約束していない人には、絶対に製品を渡すことはしませんでした。
このように、品質のよい製品を計画どおり出荷する事業実績は、まもなく政府関係者などに
認められ「工場を何倍も拡張してプラウを増産してください」と、強く要請されるのでした。
このことは、上富良野出身で拓殖(たくしょく)公社の開拓民の窓口を担当していた、
西村春治さんも語っていました。
プラウの製造は順調に進み、業績もあがり、工場の拡張工事が
行なわれていた1945(昭和20)年、8月15日に敗戦となりました。
ソ連兵が吉林市に侵攻してきて、日本人住宅地で暴動が始まりました。
危険を感じた豊治は、工場をやむなく閉鎖しました。
逃げまわる人、逃げきれず殺される人たちの情報が入ってくる不安の中で、
菅野の社員とその家族は、恐怖におびえながら、炊(た)き出しのしたくに
忙しく動きまわっていました。
婦人たちは強姦を恐れるために、髪を切って丸坊主の男装になりました。
同じ年の8月30日、いよいよ、菅野農機具製作所がある向陽屯(こうようとん)
地区にソ連兵が入ってきました。
ソ連兵に満州人も加わって豊治たちの目の前で、日本人が無惨に虐殺されて
いく様子は、まさに地獄絵でした。
工場を占領され、逃げ場を失った多くの日本人は、豊治の工場に逃げ込んで
助けを求めました。豊治は、自分の身を危険にさらしながら、みんなの面倒をみていました。
ここで、なぜ豊治の工場だけが危害を受けなかったのでしようか。
多くの日本人は、いつもすべてのことで満州人を差別扱いしていたので、この時
とばかりに仕返しをされたのです。
しかし、豊治は、だれ一人として差別することなく交友を深めていたので、
多くの満州人が「俺達は死んでもいいから豊治を守れ」と、力を合わせて守ってくれたのです。
しかし、後の文化大革命のときに、菅野農機具製作所で通訳をしていた満州人は、
日本人の味方をしたと言う罪で処刑されました。
北海道の歴史を刻んだ人々
菅野豊治(すがのとよじ)2
土を愛し、農業の大切さを訴えたスガノ農機創業者
(菅野豊治を語る 原作者 金子全一 発行スガノ農機株式会社より)
4.初代の町長だ
豊治は、各地ヘプラウの説明に歩きまわっていました。
ある農協へ手みやげを持って訪ねたとき、「産地はどこか」と、
聞かれ、「上富良野村」と、答えると、「それならダメだ」と、
手みやげだけ食べられた日もありました。
そのため、プレートに『上富良野町』とほって出荷し、
豊治は、「私が初代の町長だ」と、笑っていました。
ある日、豊治の店に乞食のような旅人が訪ねてきました。
服装はきたなくても、豊治はひとりの人間としてあたたかく
迎えました。
そして、何が気に入ったのか酒まで飲ませて家に泊めたので、
家族はブツブツ文句を言いました。
次の朝、旅人は家族がまだ寝ている間にひとつのメモを残して
出ていきました。そのメモには三層鋼板(さんそうこうはん)の作り方
が書かれていました。きっと豊治のプラウづくりに役に立つと思ったのでしよう。
その後、豊治はメモをヒントにして研究をかさね、ついに菅野式炭素焼プラウを完成させました。
しかし、畑の土質がいろいろあって、すべての畑でじようずに耕すことができませんでした。
そこで豊治は、出張で汽車に乗ったときは、停車の間に近くの畑へいって土を集め、
試験管に地名を書き込んで、工場にたくさん並べていました。
その集めた土で、それぞれの土質にあうプラウの研究をかさね、粘土質用・火山灰用・水田用・
泥炭(でいたん)地用などに合うプラウを完成させました。
その努力が認められ、北海道庁の奨励農機具に6寸深耕プラウと8寸深耕プラウが指定され、
日本甜菜(てんさい)製糖株式会社を通して製造、販売されました。
そして、各地の展覧会や審査会で、いつも上位入選し、菅野式プラウの名声を広く高めたのでした。
菅野豊治(すがのとよじ)1
土を愛し、農業の大切さを訴えたスガノ農機創業者
(菅野豊治を語る 原作者 金子全一 発行スガノ農機株式会社より)
白い農機で知られているスガノ農機は、
プラウの専門トップメーカーです。
農業の原点である耕(たがや)す分野で農家の人と
一緒に土づくりのお役に立とうと励んでいます。
1980(昭和55)年、茨城県稲敷郡美浦(みほ)村に
大きな工場を建てました。
現在、日本のプラウ市場の8割はこの工場で生産し、日本農業機械
の業界では、中堅のメーカーに発展しています。
このように発展したのは、もちろん2代目の良孝(りょうこう)
社長や現在の3代目祥孝(しょうこう)社長の大変な努力もありますが
その原点となっている菅野農機具製作所の創立者、菅野豊治を語らず
にはいられません。
2.豊治(とよじ)生誕100年
1894(明治27)年9月1日。豊治は7人兄弟の6番目として、
現在の岩手県江刺市で生まれました。
12才のとき、豊治は父や母たちと一緒に上富良野村へ開拓農民
として引っ越してきました。
そして、16才のとき近くの松岡鉄工場に丁稚奉公で入りました。
朝は暗いうちから鉄を焼いて打って、クワやマサカリなどを作り、
夜は早く仕事を終わらせて、友達の佐藤敬太郎たちと、金子商店の
前で楽しく遊んでいました。
1917(大正6)年2月2日。
24才のとき、豊治は現在の上富良野農協の近くで
菅野農機具製作所を始め、クワ・マサカリや山林用具などを
作りながら、プラウの修理もしていました。
またそのとき、両親をよんで一緒に生活を始めました。
次の年の春には、プラウの修埋が120台にもなっていました。
研究熱心な仕事ぶりは評判が良く、お店の中はいつも農家の
人々が入れ替わり立ち替わりで、にぎわっていました。
この時代の開墾は、道具もそろっていなかったので大変苦労していました。
また、未墾地でのプラウ耕(こう)は、石や木の根などが多いためプラウが
曲ったり減ったりします。豊治はそれを一生懸命に修理をしていました。
そんな姿を見ていた三枝甚作は、豊治の熱心な仕事ぶりにほれこみ
「プラウ作りをやってみないか」とすすめました。
やがて、そのことがきっかけになり、豊治が26才のとき、甚作の娘サツを
伴侶(はんりょ)として迎えたのでした。
豊治は29才のときカリエスにおかされ、長い闘病生活に入ることになって
しまいました。
しかし、注意深い療養と厚い信仰によって予想以上に早く健康をとり戻す
ことができました。
その間、1番弟子の18才の佐野長吉とサツが家業を守りつづけました。
この闘病生活によって、豊治には人間の運命感と、いかなる困難にもたえ
しのぶ強い精神力ができあがったのです。
農業の大切さを伝える“土の博物館”
上富良野町の「土の館」には世界の農耕具、トラクタやプラウ、
国内外から採取した土壌を標本にして展示しています。
この「土の館」は平成16年に北海道遺産に選定されました。
平成4年、農機具の開発・製造・販売を行っているスガノ農機株式会社が、
創業地の上富良野町に開館しました。
「土の博物館」は二棟に分かれています。北海道に初めて導入された
鉄車輪トラクタ含む世界各地のトラクタを展示した「トラクタ博物館」は
実車だけではなく、それらが実際に使われていた頃の写真やパネルも豊富にあります。
スガノ農機が創設した土の博物館。過酷な気象条件の中で進められてきた開拓の経緯や、
土と人の関わりの大切さを伝える。
なかでも、高さ4mの巨大な土の標本展示は見もの。
一階からニ階への踊り場にかけられたモノリスも非常に大きく、
階段を上っていく時に見上げるとうっかり足元を踏み外しそうになるほどです。
これは十勝岳泥流地帯のものです。
十勝岳は大正15年5月24日に大規模に噴火しました。
山頂付近の残雪を溶かし、美瑛川、富良野川を一気に駆け抜け、上富良野を呑み込みました。
泥流に押し流されて死亡した人、行方不明になった人144名にも及ぶ大惨事となりました。
断面標本は大昔の腐食黒色化した植物が生えた土の層、沼地に土砂が堆積した層、耕作
した作土など、土質は時代ごとに違います。
十勝岳噴火により生じた泥流災害で富良野川は汚染されてしまい、その影響を受けた層は
鉱毒が強く、今でも草花が生えません。噴火の凄まじさがよく分かります。
階段を上っていくと、自動で説明テープが流れます。
旭川出身の小説家、三浦綾子の『泥流地帯』、『続泥流地帯』はその災害に見舞われた人々、
農業の再興に奮闘した姿が描かれたものです。
土と人との密接な関わりを学ぶ上でも、『土の館』を訪れる際に合わせて知っていただきたい名作です。
市内を一望できる幣舞の高台に生涯学習の拠点施設
として釧路市生涯学習センター(まなぼっと幣舞)がオープンし、
3階にアートギャラリーも同時に活動を始めました。
この施設も、平成12年4月に、より一層の飛躍を目指し、
「釧路市立美術館」と名称を変え、再出発しました。
館内は大小2つの展示室を中心に高水準の展示機能を備え、
国内外の優れた美術品を紹介する特別展や所蔵作品を中心とする
常設展を活動の主体に据え、郷土で活躍する作家の作品や郷土にゆかり
のある作品を収集・研究するほか、ハイビジョンシアターでの作品の解説やセミナー
美術講習会など生涯学習センターの機能を活用した教育普及事業により
複合施設としての利点・特長を十分に活かしたものとなっています。
[開館時間] 午前10時~午後5時
[交通案内]●徒歩の場合JR釧路駅から徒歩20分(1.6km)
●タクシーご利用の場合JR釧路駅からタクシーで約5分