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上砂川2 (悲別)  

 1987(昭和62)年7月14日に三井砂川炭鉱は
73年の歴史に幕を閉じることとなった。
閉山に際して、労働組合と町が一体となって、さまざまな要望・要請を行い、
三井石炭鉱業と上砂川町の間で、閉山に伴う地域振興に関する確認が交わされた。
                                         
 その中に、地域振興基金の拠出がある。
その中でも大きな数字として1987年から5年間で2億ずつ計10億円。


(写真は、廃線となった上砂川駅でロケに使われた「かなしべつ」)
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上砂川駅(悲別駅)1                                                                                             

 25年以上前になるが、12号線を北に向かいJR砂川駅
の近くから右折して道道1115号に入り上砂川を訪ねたことがある。
三井砂川炭鉱の廃坑が決定した後だった。


 町のスーパーは石炭会社の購買部が担っていた。
事業計画の1ページ目には、町の世帯数と人口数が月ごとに
書き込まれるようになっていた。

閉山した炭砿の町を舞台として創られた演劇があった。
脚本家の倉本聰の「悲別」である。
悲しい別れと書いて、「悲別」(かなしべつ)と読む。
1984年のことだった。
その舞台となったのが、この実在の上砂川である。


(写真は、旧上砂川駅。今は廃線となって駅だけ残っている)




 明治維新後、新政府は次々と北海道開拓に対して
対策が打たれていきます。
明治2年6月17日、274大名から版籍奉還が行われ土地と
人民は政府所轄となっていましたが、実態は江戸時代と同じでした。
 新政府は、ばく大な経費を必要とする開拓事業を分領支配
(北海道を11カ国86郡に分割)による開拓方法をとることになりました。
 


この制度は、簡単に言えば殿様が城を召し上げられ家臣の士分を
剥奪され、約2万石から50石まで落とされた士族に対する救済策で
もありました。
北海道の新天地で未開拓の土地を開いたら、その土地をあげますと
いう触れ込みです。
但し、この制度は明治4年に制定された廃藩置県で脆くも話が壊れ
てしまいます。

 しかし、出願した士族の移住が始まります。
明治3年仙台藩士の移住は、
明治14年までの約10年間に、岩出山藩612人、亘理藩2,648人、
角田藩278人、白石藩851人、柴田藩123人
の合計4,512人もの人が移住しました。
今でも、この歴史が郷土資料館などに残っております。

町は石狩郡当別町、伊達市、室蘭市、登別市、札幌市白石区・手稲区、栗山町などです。
それぞれに壮絶なドラマがあります。


(写真は、当別に入植した仙台藩岩出山支藩を書いた小説「石狩川」の本庄睦男の文学碑)





北海道は明治維新後144年となります。
未開地に入植し「村を作った」のは46都府県人です。
平成の大合併で179の市町村になりましたが、それまでは212の町がありました。
 
 明治2年には約6万人に過ぎなかった北海道の人口は、
開拓使、3県1局時代を経て北海道庁が設置された明治19年には約30万人。
その後も増加を続け、明治34年には100万人を超え開道50年の大正7年に218万人となります。

また、明治19年には3万町歩(ヘクタール)にも満たなかった耕地面積も
大正7年には約80万町歩に達します。
 
 未開拓の地に最初に鍬を入れた県人は誰だったのか?
大変興味のある課題でした。
2005年に公開された「北の零年」(吉永小百合主演)は、明治4年淡路島の
稲田家臣たちが日高の静内に移住(総勢1137戸546人)したことがベースになったものでした。
しかし、明治初期の時代考証を検証してみると辻褄の合わないことがわかります。
北海道の歴史については、まだまだ知られていないことが多いのでしょう。

最近は県人会という言葉も聞かなくなりましたが、全国を回ると県民性を感じることがあります。
北海道の小さな町に照らし合わせてみると、理解できることが多いものです。


昨年末より入院をしておりましたので中断をしてしまいました。

北海道の町や村は歴史が浅いとはいいますが、まだまだ私たちが
知らない事件や人物・歴史に残したい事柄があります。

できる限り、これからは写真を含めて紹介をしていきたいと思います。
但し、当分は毎日は難しいです。


トーチカ220px-Mg-bunker-fuchsegg.jpg

 

トーチカとは、ロシア語の鉄筋コンクリート製の防御陣地を指す軍事用語のこと。
榴弾砲
の直撃にも耐えうるため、排除が困難を極める。構造の大部分が地面より下になっており、他のトーチカ等に接続される場合の通路は掘り下げられた溝状の塹壕(トレンチ)や、地上からの直接の出入り口がなく地下道によって接続されるもの、さらにはその地下道によって後方の大きな保塁や要塞とつながっているものもあった。

 

220px-Cloche-blindee--Saint-Malo-.jpg資材が不十分な場合でも、必要とあれば石やサンゴ礁の硬い砂、廃材などをあらゆるものが利用される。一般の家屋を改造してトーチカとすることもある。トーチカの壁には視察用と銃眼を兼ねた必要最小限の穴が設けられている。また、戦車埋め、砲塔のみを露出させた即席トーチカとすることもある。初めから余剰の戦車/海軍艦艇の砲塔を利用して建築されたトーチカも見られた。

構造の大部分が地面より下になっており、他のトーチカ等に接続される場合の通路は掘り下げられた溝状の塹壕(トレンチ)や、地上からの直接の出入り口がなく地下道によって接続されるもの、さらにはその地下道によって後方の大きな保塁や要塞とつながっているものもあった。

 

日本においても、遺構として北海道の根室市から苫小牧市にかけての太平洋岸に複数のトーチカ群が残されており、硫黄島では、破壊された一式陸上攻撃機を活用した掩体壕の残骸を現在も見ることができる。北方領土には、旧ソ連がトーチカとして設置したIS-3重戦車が遺棄されている。

また、現在でもシリアなど砂漠・平野での戦車戦が予想される中近東諸国では旧式化した戦車を固定陣地化しているケースもある。

 

 

 

 




北海道出身の作家36f78d32.jpeg

 

原田康子(はらだ やすこ)

1928112-20091020日(81歳)

小説家。本名は佐々木康子

 

来歴・人物

東京生まれ、釧路市出身。市立釧路高等女学校(現・釧路江南高等学校)卒業後、釧路新聞に勤務。

1949年に同人雑誌「北方文芸」に処女作『冬の雨』を発表し、以後も同誌を中心に短編・長編を発表。

taitoru.jpg1954年「新潮」同人雑誌賞に『サビタの記憶』で応募、最終候補に残って伊藤整らの高い評価を得る。翌年から「北海文学」誌上に長編『挽歌』を連載。

1956年に出版されベストセラーとなり、映画化されるなど大きな反響を呼んだ。

『挽歌』と『蝋涙』(1999年)で女流文学賞、『海霧』(2002年)で第37回吉川英治文学賞を受賞した。

競馬、将棋を趣味とし、それらについてのエッセイ集『はなれ駒あそび駒』もある。1998年の将棋王座戦の観戦記を執筆し、翌年、将棋ペンクラブ大賞を受賞。

20091020日、肺炎のため札幌市にて逝去。




北海道内のおもな義経伝説 12kumaiwa.jpg

 

羅臼町  義経の尻もち岩(尻餅沢)
知床半島まで来た義経一行は、流れ寄った鯨の肉を焼いていました。 おいしそうなにおいが辺りに漂い、そろそろ焼けた頃かなと思ったとたん、 串が折れて火の中に倒れたので、義経はびっくり。 思わず尻もちをついたのでした。 これは、尻餅沢に伝わる伝説です。

 

 

合戦のノロシを上げたところ。知床岳 (羅臼町)

知床は別名オフイというそうですが、これはアイヌ語で"焼く"という意味。
義経が合戦の軍を集めるため、 この知床岳の頂上でノロシを上げたという伝説が残っています。

頂上付近には、義経が残したという焼き魚の串が石になったものや 網を引き延ばして干したものが岩になったもの、 弁慶に踏み潰された蛇神やそれを見ていた神が岩となったものなどの話が 伝えられています。

 




北海道の歴史を刻んだ人々

 

菅野豊治(すがのとよじ)5

土を愛し、農業の大切さを訴えたスガノ農機創業者

(菅野豊治を語る 原作者 金子全一 発行スガノ農機株式会社より)

 

 

14.日本中にプラウを出すのだpo_toyozi14.jpg

従業員は15才の少年3人と14才の祥孝しかいなく
仕事はだんだん忙しくなっていきました。
 豊治は祥孝に
「ここから日本中にプラウを出すのだ」と
毎日毎日説き聞かせ、夢を与えました。
幼少だった祥孝は、
「ここに消えた満州の工場を再現するのだ」
と思っていました。
そして、後になってもっと深い意味があることにきづき
農業参画へと心を動かされることになったのです。

 

15.仕事への厳しさ、広い心po_toyozi15.jpg

 商売を始めようとしていた豊治の友人数人が
銀行から資金を借りるための連帯保証人の最後の一人
になってほしいと、豊治の所へ頼みにきました。
豊治は、みんなの前でただ断るのではなく
「付き合いや義理で保証人になってはいけない」
「先を見通して成功するか失敗するか、はっきリ言えなけ
れば本当の保証人の資格はない」
「商売を始めるあなたが、まずしつかり信用をつけるべきだ」
と、言い聞かせました。
そして、彼らは商売を始め、数年後に失敗して倒産してしまいました。
このような厳しい豊治にも、人一倍の面倒を見る世話好きなところがありました。

ある時、宗派の違うお寺のふたば幼椎園の存続間題に力を貸したことで、
園児から「おじいちやん!おじいちやん!」と、先生以上に慕われていました。
何年もたった今でも聞信寺(もんしんじ)の住職の説教の中で、そのことが語られています。
また、冗談話をしながら酒でも飲めば浪花節をうなるという、おおらかで心の広い人でもありました。

 

16.町の親父po_toyozi16.jpg

豊治には、強い奉仕の精神もありました。
ある時、会田久左ヱ門は上富良野町の
発展を願って、十勝岳にある現在の
凌雲閣温泉の開発に挑みました。
それに対して、町の人々は、だれ一人
として応援しませんでした。
しかし、豊治だけが損得なしで温泉づくりを
めざす彼の生きかたに感動し、道のない山を
社員らと一緒に登り、物心両面から支援しました。
そして、ついに開発を成功させました。

また、聞信寺の幼椎園の仕事など数えあげればきりがなく、
町内で一番たよりになる親父さんでした。
豊治は、満洲からの引き揚げ船の中で歌を詠んでいました。
それは、晩年の人生観をよくあらわしています。

 

「ふるさとえ 錦着(にしきぎ)忘れ 丸裸(まるはだか) 寒さ身にしむ 朝な夕なに」


「落ちぶれて 袖(そで)に涙の かゝる時 人の心の 奥ぞ知らるゝ」


忘るるな人のご恩を
(この歌は、菅野家の墓に歌碑として建立されている)


また、同時に次の歌も詠んでいます。
「ふるさとえ 錦着どころか ぼろも着ず ふんどし一つの 軽き旅かな」

1965(昭和40)年221日、社業が順調に発展している時に、豊治は事務所で、
突然心筋梗塞に襲われ、72才を一期として生涯をお終えました。

 

17.報恩(ほうおん)、顕彰(けんしょう)
po_toyozi17.jpg

1978年(昭和53年)2月、穐吉元専務らの呼びかけで、
創業者胸像建立期成会がつくられ、社員と関係有志の
寄付などにより、創業者夫妻の立派な胸像ができました。
それは、創業者の偉業を受け継ぎ、社業発展の糧とす
るためでした。
そして1991年(平成3年)、現在の祥孝社長らが心に思い
つづけていた、菅野豊治の記念館「土の館」が建設されま
した。
その場所は、豊治と豊治の友人や恩人の墓所(ぼしょ)がある
上富良野町の西山の台地です。
そこは、自い噴煙が天にあがる十勝岳連峰が一望できる場所です。

 

 

 

 

 

 

 

 

 




北海道の歴史を刻んだ人々

 

菅野豊治(すがのとよじ)4

土を愛し、農業の大切さを訴えたスガノ農機創業者

(菅野豊治を語る 原作者 金子全一 発行スガノ農機株式会社より)

 

10.青酸カリを手に
po_toyozi10.jpg

 日増(ひま)しに暴動は激しくなりました。
みんなの食事がもう少しでできあがるという時に、
危険を感じた通訳の人は「早くここを出たほうがよい」
とすすめました。
 出発の時に豊治は、万一虐殺されるときのことを考えて
全員に青酸カリを渡し、「いざという時に飲め」そして、
「何も持たないほうが安全だ」と言い聞かせました。

 そうして、みんなが心に覚悟をきめて、着の身着のままで、
夕方六時ごろ、豊治は塀の門をゆっくり開けて、逃げてきた
人たちと一緒に息をこらして声もださず、静かに一列になって歩き始めました。
 暴徒たちはそれを見ていたのですが、危害を加えることはいっさいしませんでした。
 これで、すべてが白紙になり、裸一貫になったのです。
 それから収容施設の生活が始まり、厳しい寒さが病気や飢えに追い打ちをかけるのでした。
死体は山のように積み上げられ、とてもこの世とは思えない悲惨なものでした。 
 他の人々は、逃げている途中で少しでも体が弱った人がいれば、みんなの足手まといに
なると言って捨てられ、また生まれたばかりの赤ちやんは、いつのまにか背中で死んでいる
という状態でした。
涙なしでは語れないと、当時13才だった現在の祥孝社長は、振り返り話しています。

 

11.再開業と厚情po_toyozi11.jpg

1946(昭和21年)812日。
大陸の夢が砕かれた豊治は、
故国の日本に船で帰ることになりました。
その2カ月後の1014日、故郷の上富良野に家族そろって到着しました。
しかし、着の身着のままでの北国の10月中旬は、とても寒いものでした。
 豊治には、住む家がありませんでした。
しかし、少年のころから親友だった佐藤敬太郎は、そのことを両親に話しました。
両親は、こころよく自分たちが畑への通い小屋に移り住み、豊治一家に自宅を貸しました。
借りた家の屋根裏から星が見えました。
その星を眺めながら寝た豊治は、「極楽のようだ」と言っていました。
 裸一貫で帰ってきた2カ月後の雪深い12月に、豊治は疲れた体と、痛んだ心を休める
暇もなく間口3間、奥行6間の大きさの工場を建て、再び商売を始めました。
一文(なしで帰つてきたというのに工場の棟上げの夜、棟梁から手伝いの大工まで、
どうやって準備したのか祝儀袋を渡してお礼を言いました。
 52才の豊治は、心魂(しんこん)をかたむけてプラウの製作に打ち込んでいました。
この情熱と闘志に人々は心をうたれ、やがて「豊治が帰ってきたぞ」と、村中に知れわたりました。
農家の人々は、6年前に豊治が満州へ出発するときに、品物の代金をゼロにしてもらったことを
忘れていませんでした。朝、工場の前にはイモ、麦の俵が積んであり、入口のムシロ戸の中に
は米、ソバ、野菜、豆。そして、ドブロクまでいろいろな品物が毎日届けられていました。
こうして、お互いの厚情のきずなは一層深くなっていき、豊治にとっては、報恩(ほうおん)と
感謝の日々だったのです。

 

12.なぜ「白」かpo_toyozi12.jpg

菅野の製品は、満州から引き揚げてきたときから、
白い塗装(とそう)になりました。 
塗装(とそう)を「なぜ、白にしたのか」と聞かれたとき、
豊治は「自はごまかしのできない、混ざっていない色である」
そして「商売はつねにお客さまに裁かれて存在している」
「白はどこにあっても目につく、したがってお客さまが何年もかかって
使い終わるまで、良質の性能を維持する製品を造らなければならない
」「ご愛用者に感謝の気持ちで、農業に役に立つ仕事をするのだ」と、説明していました。
 現在、そのことばは、「白の理念」として、社訓になっています。

 

13.大八車で土づくりpo_toyozi13.jpg

長男の良孝は、シベリアからまだ復員していなかったため、
次男の祥孝は、豊治の向こう打ちを手伝っていました。
 祥孝は、朝も晩も仮住まいの家から工場までの2.5kmを、
大きな大八車を引いて通っていました。
その大八車にはりんご箱が積んであり、道路に落ちている馬ふんを
拾い集めていました。
そして、そのりんご箱が馬ふんでいっぱいになると、工場の横に積み
上げておき、農家の人々に、「たい肥に使ってください」と、あげていたのです。
 父に「土づくりの手伝いをするのだよ」と言い聞かされていたのですが、
子供であった祥孝にとって、その馬ふんひろいは大変に嫌な日課でした。

 




2008年8月7日。 日本の一番東にある根室から出発します!
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上家二三夫
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