北方領土の歴史
●日魯通好条約
1855年(安政元年)、伊豆下田において「日魯通好条
約」が調印されました。
この条約で初めて日ロ両国の国境は択捉島と得撫島の間に決められ、択捉島から南は日本の領土とし、 得撫島から北のクリル諸島(千島列島)はロシア領土として確認されたのです。
また、樺太は今までどおり国境を決めず、両国民の混
住の地と定められました。
●樺太千島交換条約
1875年(明治8年)、日本は、樺太千島交換条約を結び、樺太を放棄する
代償としてロシアから千島列島を譲り受けました。
この条約では、日本に譲渡される千島列島の島名を一つ一つあげていますが、
列挙されている島は得撫島以北の18の島々であって、択捉島以南の北方四島
は含まれていません。
●ポーツマス条約
1905年(明治38年)、日露戦争の結果、ポーツマス条約が締結され北緯50度
以南の南樺太が日本の領土となりました。
●サン・フランシスコ平和条約
1951年(昭和26年)、日本はサン・フランシスコ平和条約に調印しました。
この結果、日本は千島列島と北緯50度以南の南樺太の権利、権原及び請求権
を放棄しました。
しかし、放棄した千島列島に固有の領土である北方四島は含まれていません。
政府は、北方領土返還要求運動関係団体等の
「北方領土の日」
の制定の決議や要望、関係民間団体、学識者及び
地方自治体等との懇談会を開くなど広く各界各層から
の意見を踏まえて、
1981年(昭和56年)1月6日の閣議了解により、
毎年2月7日を「北方領土の日」とすることを決めました。
日魯通好条約
2月7日は、1855年のこの日(旧暦では安政元年12月21日)
現在の静岡県下田市において日魯通好条約が調印された日です。
この条約は、日本とロシアの間に通商を開くとともに、平和的な話し合いによって
両国の国境を択捉島とウルップ島の間と定めたもので、これによって、
択捉島、国後島、色丹島及び歯舞群島の北方四島は日本の領土として確定し、
これ以後、両国の国境は何度も変わりましたが、北方四島は一貫して日本の領土でした。
歯舞群島(はぼまいぐんとう)
秋勇留島 (あきゆりとう)
オドケ島 (おどけとう)
貝殻島 (かいがらじま)
海馬島 とどじま(かいばじま)
カブ島 (かぶじま)
カブト島 (かぶとじま)
志発島 (しぼつとう)
水晶島 (すいしょうとう)
多楽島 (たらくとう)
カナクソ島 (かなくそとう)
ハルカリモシリ島 (春苅茂尻島)はるかりもしりとう
萌茂尻島 (もえもしりとう)
勇留島 (ゆりとう)
●歯舞群島は北方領土と呼ばれる北方四島(択捉・国後・色丹・歯舞)の一つです。
たくさんの島の集まりですが四島の中の一つとして数えています。
●現在は納沙布岬と貝殻島の中間に国境線が敷かれ、ロシアの管理下にあります。
日本はロシアに対して返還を求めている地域です。
●ハボマイの語源はアイヌ語の「アプ・オマ・イ」で意味は“流氷のあるところ”という意味だそうです。
●明治時代は珸瑶瑁(ごようまい)諸島、大正4年(1915年)に珸瑶瑁村が歯舞村と合併し、その後
歯舞群島となり、現在では日本の行政域では根室市、ロシアではサハリン州に属しています。
●国土地理院は平成20年3月21日、北海道根室市から地名変更の要望を受け、
歯舞諸島の名称を歯舞群島へ変更しました。
色丹島(しこたんとう)
北方領土(ロシア名:Остров Шикотанシコタン島)
住所/(日本の行政区域では根室支庁)
北海道色丹郡色丹村
面積/255.12k㎡ 周囲/152.3km
人口/3,169人(2006年ロシア統計)
[昭和20年8月
当時1,499人(ウィキペディア)/1,038人(シマダス)]
アクセス/ビザなし交流(元住民、他関係者)
(ロシアのビザを取得して行く)
【船・サハリンクリル海運】
サハリン・コルサコフ(大泊)港→斜古丹港
※ロシア発行のビザを取得して渡航する方法は、
北方領土をロシアの領土と認めることになるので、
日本政府はこの方法での渡航に自粛要請をしています。
●歯舞群島の多楽島から北東へ約20kmほどの所に
色丹島はあります。
●最高峰は島の北側にある斜古丹(しゃこたん)山(412.6m)。
斜古丹山を中心に北側は高い山々が連なり、南に行くにつれて
緩やかな山や丘が続いています。
●島内からは縄文式土器やオホーツク土器(モヨロ式土器)、
貝塚が発見され、古くから人が住んでいた形跡があります。
●日本人(和人)がこの島と関係を持ち始めたのは18世紀の終り
の頃ですが、それ以前は少数のアイヌの人々が暮らしていました。
1856年から20年ほど無人島になったことがありますが、1875年
(明治8年)の千島・樺太交換条約締結後の明治17年に、千島列島
の北端にある占守島から97人の千島アイヌ(クリル人)が色丹島に
強制移住させられたという記録があります。
彼らはその後生活環境に馴染めず絶滅したと伝えられています。
●日本人(和人)が本格的に定住を始めたのは明治20年頃からで、
大正から昭和の はじめには捕鯨基地なども出来、大いに栄えま
した。
●1945年9月以来ロシアの統治下になっており、斜古丹に中心集落
があります。
●色丹島の名前の由来はアイヌ語のシ・コタン(大きい・村)。
国後島の先端“安渡移矢岬(あといやみさき)”から
国後水道を隔てて北東へ約20km、北方四島最大
の島“択捉島”があります。
面積は国後島の約2.1倍、北方領土を日本領に含めた
場合では日本最大の島ということになります。
細長い地形は全長203kmにも及び、1,000mを超える山々
が島の存在感を示しています。
最高峰は1,585mの散布(ちりつぷ)山。
別名「択捉富士」と呼ばれる阿登佐岳(あとさぬぶり)、
年萌(としもえ)湖や得茂別(うるもんべつ)湖、
そして点在する湿原など多くの自然を残し、
温泉が湧き出る場所も見受けられるようです。
古くから親潮に乗ってくるサケ、マスなどの水産資源、
金・銀・硫黄鉱などの鉱物資源にも恵まれている島で
もあります。
西側にはナヨカ湾、留別湾、内保(ないぼ)湾があり、
戦前には集落が存在していました。
中央部東側の単冠(ひとかっぷ)湾は冬でも流氷が
接岸しない大型不凍湾として知られ、
真珠湾攻撃の際に大日本帝国海軍機動部隊が
最後に集結発進した場所として知られています。
北方領土(ロシア名:Итуруп イトゥルップ)
●住所/(日本の行政区域では根室支庁)
北海道択捉郡留別(るべつ)村・紗那(しゃな)郡紗那村
・蘂取(しべとろ)郡蘂取村
●面積3,182.65k㎡●周囲658.5km
●人口/6,739人(2006年ロシア統計)
[昭和20年8月当時3,608人]
●アクセス/ビザなし交流(元住民、他関係者)
【飛行機・サハリン航空】 (ロシアのビザを取得して行く)
函館空港or新千歳空港→
南サハリン(樺太)のユジノサハリンスク(豊原)空港→
択捉島留別村のブレヴェスニク空港
【船・サハリンクリル海運】
サハリン・コルサコフ(大泊)港→択捉島
※ロシア発行のビザを取得して渡航する方法は、
北方領土をロシアの領土と認めることになるので、
日本政府はこの方法での渡航に自粛要請をしています。