日本に対峙する共産圏の最前線となり、軍事基地や
国境警備隊基地が多く配置された。
一方、日本政府は、米国の意を受けて日ソ平和条約交渉
においてこの島の返還を要求したが受け入れられず、
1956年の日ソ共同宣言による国交回復後も、日本政府の
返還要求をソ連が拒否し続けた。
ソ連側がビザを要求するようになり、長期中断を余儀なくされた。
期の1989年にも7766人が居住していた。
現在に至るまでロシアによる不法占拠下にあるものとしている。
連合国に占領されたが、国後島を含む千島列島は、
一般命令第1号によって、ソ連占領地となった。
GHQからSCAPIN-677が命令され、日本は国後島を含む千島列島の施政権を
停止されると、直後の2月2日、ソ連はこれら地域を自国領土に編入した。
SCAPIN-677は領有権の移転を命じたものではない。
当初は、ハバロフスク地区の一部とされていたが、1947年1月にはサハリン州が独立した。
1948年までにほぼ全員の日本人が帰国した。
戦後のソ連は、日本に近すぎる泊を嫌い、ユジノクリリスクという新たな中心集落を、
日本時代の漁村であった古釜布を望むほぼ無人であった高台に建設した。
アイヌ人はついに、1789年5月、国後島泊の運上屋(交易拠点)
を襲撃。
これは対岸の根室・標津方面にまで広がり、大規模な
「国後目梨の蜂起(いわゆるクナシリ・メナシの戦い)」
に発展した。
松前藩は、260名の鎮圧部隊を送り込み、
首謀者のアイヌ人37名を全員処刑して、蜂起は鎮圧された。
この結果、日本人による国後島領有は確立された。
千島列島測量のため国後島に上陸すると、日本の幕府役人は彼を逮捕し、
箱館に連行して幽閉した。
1855年の日露和親条約で、国後島の日本領有は国際的に確認された。
を管轄する官庁や神社がおかれ、中心集落であった。
産業としては、コンブ・サケ・カニなどの漁獲高が多く、缶詰製造で栄えた。
また、畜産、金属や硫黄の採掘も行われていた。
島の名前の由来は、アイヌ語の「クンネ・シリ(黒い島)」
または「キナ・シリ/キナ・シル(→草の島)」
からであるが、どちらが本当の由来かははっきりとしていない。
でおり、日本語名もロシア語名も国際標記もこれに起源を持つ。
沖縄本島より大きく、日本では、2番目の大きさを持つ島。
2006年の島全体の人口6,801人(ロシア統計より)。
中心集落である古釜布(ふるかまっぷ)の2006年の人口は、6,081人。
択捉島に次ぎ二番目に大きく全体の29.6%の面積を占める。
北海道の東、根室海峡からカムチャッカ半島の南、
千島海峡までの間に連なる列島。
国後島(くなしりとう)、択捉島(えとろふとう)、得撫島(うるっぷとう)、
幌筵島(ぱらむしるとう/ほろむしろとう)、占守島(しゅむしゅとう)
などの島々からなる。
総面積10355.61km²。
全島をロシア連邦が実効支配しているものの旧ソ連は
サンフランシスコ講和条約に調印しておらず、
日本は択捉島以南(いわゆる北方領土)の領有権を主張するとともに、
台湾と同様に他の全島も国際法上領有権は未定と主張している。
現在も北方四島はもちろん、
得撫島以北の得撫・新知・占守の三郡についても札幌国税局管内の根室税務署の管轄
とされており、法制的には存続しているという主張も一部にはあるが、行政権における不整合
はそれが障害にならない限り是正はされないのが原則であり、行政、法律に関して通暁して
いない素人議論である。
写真
1.色丹村、2.泊村、3.留夜別村、4.留別村、5.紗那村、6.蘂取村
上砂川町
母町である砂川は、アイヌ語で「オタウシナイ」で
「オタ」は砂、「ウシ」は多い、「ナイ」は川という意味から
砂川と命名。
砂川の上流にあることから「上砂川」。
上砂川町(かみすながわちょう)は、空知支庁管内にある町。
上砂川炭田があり、かつて産炭地として他の空知炭田群とともに
日本の資本主義経済を支えた。
明治20年に上砂川炭田が発見され、その後、
明治32年に福井県鶉村から来た開拓者・山内甚之助氏他8名によって
この地に鍬が入れられたのが発祥。
大正3年には石炭社である三井鉱山株式会社が起業し、以来炭鉱の町として発展し
昭和24年には当時の砂川町、歌志内町の一部を分割して「上砂川町」が誕生しました。
その後、出炭量も増加し、昭和27年には最大人口の32,103人を数えましたが、
エネルギー革命の急速な進行により昭和62年7月に閉山となり、73年の炭鉱の歴史
に幕を閉じた。
上砂川駅は映画やテレビドラマのロケ地となり、有名な作品の舞台として、
時には重要なシーンの撮影場所に選ばれました。
駅舎は、平成6年に上砂川線が廃止になった後に現在の場所に移設されたが、
上砂川町の舞台となった架空の町「悲別」の多くが上砂川町で撮影され、
その駅(悲別駅)として上砂川駅が使われたことから、時刻表や改札などをそのまま残し
ロケ当時の写真などを展示している。
炭鉱画家「山本作兵衛」の220点展示!
明治から昭和にかけての坑内労働者などの様子を絵筆で残し
た山本作兵衛(1892~1984)の作品展が釧路市博物館で始まった。
山本氏は明治中期から田川市の中小炭鉱(福岡県筑豊地方の炭鉱)
で働いた。
国のエネルギー政策の転換で閉山が相次いだ1950年代から
「消え行くヤマの風景を残したい」
と墨や水彩画で描き始め、約1000点を残した。
南北の地から見つめなおす試み。
12月21日まで展示。入場は無料。
釧路市市立博物館