2013/03/08 20:50:51
アイヌ民族の蜂起 32
シャクシャインの戦い(6)
寛文9年(1669年)7月5日のとこであった。今度は西蝦夷の異変が伝えられた。
大船清三郎の持ち船に乗っていた水主(かこ)が、深手を負って松前にたどりつき
襲撃されたことを語ったのである。
東蝦夷異変の第一報が届いたのは前月の21日だった。
その15日後に西蝦夷もシャクシャインに加担したことを知った。
松前藩は、これで蝦夷地には誰も味方がいないことを悟ったのであった。
松前藩の家臣は80余名ほどであったので、町が騒然となり津軽に逃げだそうとし
たのは当然であった。
松前藩は、すでに第一報を江戸に送っていたが、続いて第二報の使者を江戸と
東北の藩主あてに走らせた。
使者には「百挺の鉄砲を貸してほしい」と伝えさせたのであった。
百挺しか持たない松前藩が、ここまでに鉄砲を貸して欲しいと頼んだ数は五百挺
にもなっていた。
和人地と蝦夷地の境には関所を設けていた。この場所は現在の熊石であった。
7月6日、松前藩は西蝦夷の番所である、相沼内・熊石・関内に松前左衛門、蛎崎
采女らを大将に雑兵を含めて500人を送った。
熊石から50キロ北には、セタナイ(瀬棚)首長のアイコウインがいたので、それを封じ
込めようとしたのである。
更に、人を増やし7月初旬には1000人を越えるほどのものものしさであった。
(写真は、アイヌのヨロイ)
シャクシャインの戦い(6)
寛文9年(1669年)7月5日のとこであった。今度は西蝦夷の異変が伝えられた。
大船清三郎の持ち船に乗っていた水主(かこ)が、深手を負って松前にたどりつき
襲撃されたことを語ったのである。
東蝦夷異変の第一報が届いたのは前月の21日だった。
その15日後に西蝦夷もシャクシャインに加担したことを知った。
松前藩は、これで蝦夷地には誰も味方がいないことを悟ったのであった。
松前藩の家臣は80余名ほどであったので、町が騒然となり津軽に逃げだそうとし
たのは当然であった。
松前藩は、すでに第一報を江戸に送っていたが、続いて第二報の使者を江戸と
東北の藩主あてに走らせた。
使者には「百挺の鉄砲を貸してほしい」と伝えさせたのであった。
百挺しか持たない松前藩が、ここまでに鉄砲を貸して欲しいと頼んだ数は五百挺
にもなっていた。
和人地と蝦夷地の境には関所を設けていた。この場所は現在の熊石であった。
7月6日、松前藩は西蝦夷の番所である、相沼内・熊石・関内に松前左衛門、蛎崎
采女らを大将に雑兵を含めて500人を送った。
熊石から50キロ北には、セタナイ(瀬棚)首長のアイコウインがいたので、それを封じ
込めようとしたのである。
更に、人を増やし7月初旬には1000人を越えるほどのものものしさであった。
(写真は、アイヌのヨロイ)
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