2011/07/07 00:51:08
北海道人のルーツ
明治2年
<北海道分領支配制度>
北海道全土にわたって開拓を推し進めるには、開拓使だけ
ではで到底できるものではありませんでした。
新政府は、ばく大な経費を必要とする開拓事業を分領支配
(北海道を11カ国86郡に分割)による開拓方法をとることに
しました。
太政官は明治2年7月22日に分領を出願制としましたが、藩
で出願したのは15藩。強制的に命じられたのは9藩でした。
分領支配の条件は財政負担の大きいものでした。
1.支配地の指定、変更などに、介入。
2.開発経費などは藩の負担。
3.司法権の政府掌握。
最初の出願は、明治2年8月7日、水戸藩知事徳川昭武。
天塩国苫前郡、天塩郡、上川郡、中川郡と、北見国利尻郡5郡
の支配を命じられ以後、順次分領支配が展開します。
開拓使の直轄は20郡、その他各藩と東京府・兵部省・増上寺
・仏光寺などに分領しました。
そうして、出願してきた士族団体がありました。
伊達邦成・伊達邦直・片倉那憲・伊達広高
石川邦光・亘理胤元・五島銑之丞・稲田邦植
の8士族。大半が戊辰戦争の「敗残兵」でした。
士族としては、新たな領土支配と家来の生活を賭けた希望の
出願でした。しかし、自費であることと原始林の開拓は簡単な
ものではありませんでした。
最後まで支配地を維持しはのは13藩2華族6士族2寺院。
このため、明治4年廃藩置県の直後にこの制度を廃止し松前
藩(館県)を除いて全土を直轄となります。
士族団体の領土支配の夢は2年で崩れてしまいます。
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