2011/09/09 00:19:23
明治8年5月7日<ロシアと樺太・千島交換条約調印>
明治2年、北方開拓のために「開拓使」が置かれ、歯舞群島、色丹島、国後島、択捉島は
郡制の中に組み入れられました。
樺太では、ロシアが日本の根拠地に迫ってきたため、樺太を北上して漁場を拡張しつつあ
った日本人との間に紛争が絶えませんでした。
ロシア人は確実に要所を狙って植民地を建設していくのに対して、日本は漁場の拡張に
主眼を置いていたため、次第に圧迫されるようになりました。
このような現状を打破するため、明治政府は明治7年に榎本武揚を特命全権大使として
ロシアに派遣し、明治8年5月7日、ロシア全権ゴルチャコフ首相との間で「樺太千島交換条約」
を締結しました。
この条約によって、「日魯通好条約」で両国民混住の地とされた樺太全島はロシア領となり、
その代りに、ロシア領であったクリル諸島(得撫島から占守島までの18島)が日本の領土となりました。
明治2年、北方開拓のために「開拓使」が置かれ、歯舞群島、色丹島、国後島、択捉島は
郡制の中に組み入れられました。
樺太では、ロシアが日本の根拠地に迫ってきたため、樺太を北上して漁場を拡張しつつあ
った日本人との間に紛争が絶えませんでした。
ロシア人は確実に要所を狙って植民地を建設していくのに対して、日本は漁場の拡張に
主眼を置いていたため、次第に圧迫されるようになりました。
このような現状を打破するため、明治政府は明治7年に榎本武揚を特命全権大使として
ロシアに派遣し、明治8年5月7日、ロシア全権ゴルチャコフ首相との間で「樺太千島交換条約」
を締結しました。
この条約によって、「日魯通好条約」で両国民混住の地とされた樺太全島はロシア領となり、
その代りに、ロシア領であったクリル諸島(得撫島から占守島までの18島)が日本の領土となりました。
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