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明治4年 <札幌郡月寒(つきさっぷ)村開拓>吉田善太郎
 
吉田一族
 
吉田家は代々南部藩に仕える藩士(現:岩手県盛岡市)でしたが、
明治4年の廃藩置県のため北海道開拓使の移民募集に応じて札幌郡月寒村
(現:豊平区月寒中央通7丁目)に入植し木炭製造を始めます。

明治14年、善太郎は20歳で父を失い家業を継ぎます。
明治20年、開拓史から大谷地の地23万余坪の借下げを受けます。
明治24年灌漑用水路「吉田用水」(これが現在の吉田川)を完成し水田耕
作が普及します。
現在の豊平の福住、月寒東から北野、清田、さらには大谷地まで広がり、水田
は70町歩、畑地は60町歩、小作人は30数戸となります。
明治26年、善太郎の敷地(現:栄通しらかば公園)付近に旧大谷地簡易教習所
(現:札幌市立大谷地小学校)を創設に貢献。
明治30年、吉田牧場を開設し牧場も経営して乳牛の改良にも努めます。
明治37年、現在の八紘学園資料館となる畜舎・サイロが完成し乳牛(ホルスタ
イン種)20頭をアメリカより輸入(日本初の試み)。
明治42年、別荘(現:八紘学園栗林記念館)が完成。
大正5年死去。
 
昭和3年、善太郎の長男善助は、善太郎の弟権太郎の影響により、白老社台地
区に移住します。アメリカよりサラブレッドを購入し、社台牧場を創設。
後に善助の三男善哉は、千葉社台牧場(後の社台ファーム千葉)を設立し独立
社台グループ)、サラブレッド牧場の経営・育成に専念していきます。
今日の競走馬の基礎となります。
昭和7年、善三の牧場地(現:東月寒公園一帯)の土地を黒澤酉蔵(雪印乳業
創設者)の弟、黒澤和雄(豊平町議員)に売却。
(サイロ・畜舎は、後の東月寒白樺会館となる)。
昭和8年、現八鉱学園一帯の土地を栗林元二郎(八紘学園創設者)に売却。
 
 吉田善太郎の開拓の功績

開拓範囲
月寒村東月寒地区→現:札幌市豊平区(月寒東・羊ケ丘・福住)地区
白石村大谷地地区→現:札幌市清田区(北野・清田)地区
白石村大谷地地区→現:札幌市白石区(栄通・南郷・本通南)地区
白石村野津幌地区→現:江別市野幌地区など
 
史跡・跡地など
吉田川
現:北海道農業研究センター敷地内の小川より水を引く灌漑用水路を開拓し、
下流に水田を(現:清田区北野地区)開設。現在の吉田川と命名された。
吉田善太郎功労碑
明治43年用水路を作り、水田耕作や土地の寄贈など月寒の発展に貢献した
ことにより月寒公園(月寒神社境内)に建立。
吉田用水記念碑
大正8年に用水路創設の起点地(現:清田1条1丁目北海道コカ・コーラボトリ
ング)に建立。
吉田川公園
吉田川下流域(豊平区体育館付近)に隣接する公園。川の名称より命名。
吉田山公園・吉田山2号公園
かつて南郷一帯の丘陵(現:南郷18丁目駅付近)を吉田山と称されており、
その名称より命名。
旧吉田農場・牧場旧黒澤牧場畜舎・サイロ(現:東月寒白樺会館)
旧吉田牧場(現:八紘学園牧場地)
北海道農業専門学校の敷地内ある札幌軟石で作られたサイロ。
さっぽろ・ふるさと文化百選および、都市景観重要建築物に選定されている。
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明治維新後の北海道政策を治めた人は41名
 
明治維新後、今日まで北海道の政策にリーダーとなった人は41名おります。
(三県一局時代は農商務省管轄となりましたので省いております)
 
開拓使時代  明治2年~明治15年 開拓長官4名
       長期は鹿児島県出身の黒田清隆(次官から通算すると12年間)
 
三県一局時代 明治15年~明治19年 開拓事務のために農商務省に北海道事業管理局
 
北海道庁時代(北海道知事) 明治19年1月~昭和22年5月 31名
       3ヶ月~8年間に及ぶ知事もおります。
       主だった人は、初代岩村通俊(高知県)2代目永山武四郎(鹿児島県)
 
地方自治法が施行後の北海道知事  昭和22年5月~平成23年 6名
       選挙による知事戦となり
       田中敏文(当選3回)  青森県
                   町村金五(当選3回)  札幌
                  堂垣内尚弘(当選3回) 札幌
                  横路孝弘(当選3回)   札幌
                  堀 達也(当選2回)     樺太
                  高橋はるみ(当選3回)  富山県


出身地別
7名 鹿児島県 
4名 佐賀県 岡山県 
3名 北海道 
2名 高知県 京都府 長野県 静岡県 新潟県 広島県 
1名 兵庫県 熊本県 福井県 島根県 和歌山県 山口県 福岡県 宮崎県 
         青森県 富山県 樺太 

明治5年<学問のすゝめ>福沢諭吉著書
 
明治5年2月初編出版で明治9年11月の17編を以って完成をみたものです。
8年間で合計約70万冊が売れましたが、最終的には300万部以上売れたとされており、
当時の日本の人口が3000万人程であったから10人に1人が読んだベストセラーでした。
 
「天ハ人ノ上ニ人ヲ造ラズ人ノ下ニ人ヲ造ラズト云ヘリ」
という一節は福沢諭吉の言葉ではなく、アメリカ合衆国の独立宣言からの引用したもの
だそうです。
「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らずと言われている。
人は生まれながら貴賎上下の差別ない。
けれども今広くこの人間世界を見渡すと、賢い人愚かな人貧乏な人金持ちの人身分の
高い人低い人とある。その違いは何だろう?
それは甚だ明らかだ。賢人と愚人との別は学ぶと学ばざるとに由ってできるものなのだ。
人は生まれながらにして貴賎上下の別はないけれど、ただ学問を勤めて物事をよく知る
ものは貴人となり富人となり、無学なる者は貧人となり下人となるのだ。



明治5年 <簾舞(みすまい)通行屋>
札幌市南区簾舞1条2丁目
 
簾舞通行屋(みすまいつうこうや)は、明治4年に開通した「本願寺道路」
宿場で開拓使によって明治5年に建築されました。

本願寺道路は深い原生林に囲まれた幅3m以下の道路で、明治期にはすで
に湯治場だった定山渓まで休息する場所はここだけでした。
当時の政府の命を受けて屋守となった九州出身の黒岩清五郎は、この辺
りの最初の定住者として、通行人に宿を提供しつつ周辺の開拓に取り組みます。

札幌に残る唯一の通行屋であり、地区最古の開拓農家であり開拓使初期の家屋構造
を伝える建物として、今では簾舞郷土資料館「旧黒岩家住宅(旧簾舞通行屋)」として札幌市指定の有形文化財となっております。








明治4年<本願寺道路(現在の国道230号の基礎)>
 
本願寺道路が作られた経路は、明治2年に札幌に北海道の本府を置くことが決
まると、ロシアの南下政策の脅威に対抗するため、大量の移民入植が必要でした。

そのためには箱館から札幌へのルート開拓は急務とされました。
このとき財政難の明治政府は、徳川家の恩顧であった東本願寺を動かして道路開
削を出願させます。

現在の国道230号は、札幌市を起点とし、久遠郡せたな町を終点とする208.2km
の一般国道となっていますが、当時のルートは伊達市から洞爺湖沿岸を経た後に
現在の230号線ルートに入り、旧平岸村へ至る街道でした。
明治3年、東本願寺代表現如らによる北海道開拓活動として伊達~札幌を直結する
通称「本願寺道路」の開削工事を開始。
工事の労働には僧侶のほか、士族と平民の移民、アイヌが従事し約103kmの道路
を開削し一年余で完成させます。



明治4年<廃藩置県>約200万人の大量解雇
 
明治4年7月14日に、藩を廃止して地方統治を中央管下の府と県に一元化しました。
明治2年6月17日、274大名から版籍奉還が行われ土地と人民は政府所轄となって
おりましたが、各大名は知藩事(藩知事)として統治したので江戸時代と同じでした。
廃藩置県は全国約200万人に上るとも言われる藩士の大量解雇に至るものでした。
 
藩は県となって知藩事(旧藩主)は失職し、東京への移住が命じられます。
各県には知藩事に代わって新たに中央政府から県令が派遣されました。
明治4年10~11月に3府72県に統合されます。
その後、県の数は明治5年69県、明治6年60県、明治8年59県、明治9年35県
と合併が進み、明治14年の堺県の大阪府への合併をもって完了。
更に、明治22年に3府43県(北海道を除く)となって現在の形に落ち着きます。



 
明治4年<みそ・しょうゆ醸造所/官営工場の始まり>篠路村
 
石狩郡篠路村に本道初のみそ・しょうゆ醸造所が造られました。
これは北海道における官営工場のはしりとなります。
開拓の初期、生活物資の大半は本州から運ばれていました。
しかし、北海道へ移民を進め新しい産業を起こすには開拓使自ら事業を進め
るほかなかったのです。こうして、生活に何よりも必要なみそ、しょうゆの
官営工場が生まれました。

篠路が選ばれたのは、石狩、札幌への交通の要地であり、原料になる大豆、
米、麦などが容易に手に入ったからです。
当時は石狩湾から石狩川(現在の茨戸川)をさかのぼり、茨戸を経て、伏籠川
から札幌へというのが物資運搬のルートでした。

「しょうゆには<松><竹><梅>のラベルが張られ、<菊><福寿>などの特製品も作
られました。
官営によるこの篠路工場も、明治11年9月、宮城県の士族「沢口永将」に払い
下げられますが、経営は振るわず引き揚げることとなります。



開拓使時代の政策と移民 明治8年~11
 
明治8 移民(送出地入植地)
         ▲屯田兵入植(第一回)  奥羽 琴似
 
明治9年 移民(送出地入植地)
         ▲屯田兵入植        奥羽 発寒
 

明治10年 ◎土地政策 

    北海道地券発行条例(土地の所有権を認めた地券を発行)
 
明治11 移民(送出地入植地)
         ▲尾張徳川家による移民  愛知 山越
         ▲農社「共同社」による移民 ―   檜山
         ▲屯田兵入植              岩手  江別
 



庚午事変(稲田騒動) 北の零年
2005年公開映画のモデル  吉永小百合主演

淡路島(洲本)⇒日高(静内)

江戸時代の淡路島は徳島藩の支配下にあり、洲本には家老の稲田氏が派遣されていた。
明治政府は明治2年に武士の身分を士族と卒族に分け、禄高もその身分に応じて減ら
すことにした。稲田家当主は士族の千石給与となったが、稲田家臣は卒族にされ僅か
の手当てとなり生活に対する不安は大きく、また稲田家との主従関係が断ち切られた。 

稲田家臣は士族への編入を嘆願するとともに、稲田家の分藩独立運動をおこした。
この稲田側の動きは蜂須賀本藩家臣の激しい怒りをかい、明治3年5月13日の早朝、
蜂須賀家臣らが洲本下屋敷町の稲田邦植の別邸などを襲い、無抵抗の者を殺傷し火を
放った。この年は庚午のとしであったところから庚午事変ともよばれている。
この事件に対する政府の処置は厳しく、首謀者10名が断罪(のちに切腹)、27名
が流罪、その他禁固、謹慎など多数を数えた。

一方稲田家側は稲田邦植以下全員が北海道開拓を命ぜられ、翌年静内に移住した。
総勢1137戸546人が移住を終えたのは明治4年5月2日であった



北海道の歴史(年表)明治3年~明治5年

1870年(明治3年)


2月13日 樺太開拓使を置く。            
5月13日 淡路で庚午事変(稲田騒動)が起きる
5月17日 北海道に屯田兵が入植する。          
9月25日 囚人に刺青することを廃止する          
函館外人墓地・嘉永7年(1854)、ペリー艦隊来航のとき死んだ2人の水兵の埋葬場所に提
  供したのがここでした。在函5ヵ国の領事からの要望で正式に外国人墓地として定められ
  道をはさんで山側がロシア人墓地。海側のプロテスタント墓地にはイギリス・ドイツ・
  アメリカ・イタリア。          
伊達市の開拓<伊達邦成・仙台藩領亘理領主>      
苗穂村・丘珠村開拓<山形県人>        
大友亀太郎は札幌を去り故郷である神奈川県小田原市へ    
 
1871年(明治4年)
5月2日 稲田家臣団静内郡へ移住。総勢1137戸546人。      
7月14日 天皇は在京56藩知事を集め、廃藩置県の詔書を出す(3府302県とする)  
8 廃藩置県の実施            
9月20日 戊辰戦争で敗れ、北海道移住を余儀なくされた仙台藩片倉小十郎家臣団401名を乗
  せて仙台の寒風沢を出港した咸臨丸は、箱館経由で小樽に向かう途中、木古内町のサ
  ラキ岬沖で座礁。乗船者は難を逃れましたが、咸臨丸はその数日後に破船沈没。
11月22日 全国を3府72県と改める。          
本願寺道路(現在の国道230号の前身)が開通      
  1870年東本願寺代表現如らによる北海道開拓活動として伊達~札幌を直結する通称
  「本願寺道路」の開削工事を開始。一年余で完成させる。当時のルートは厳密には
  伊達市から洞爺湖沿岸を経た後に現在の230号線ルートに入り、旧平岸村へ至る街道。
北海道で初めて米作りを成功させた中山久蔵は島松(現北広島市)に開墾で移り住む。
篠路村に本道初のみそ・しょうゆ醸造所が造られた。    

1872年(明治5年)
1月6日 榎本武揚、函館戦争の罪により入獄中、黒田清隆の助命運動により出獄  
1月29日 初の全国戸籍調査、総人口331万825人        
2 福沢諭吉「学問のススメ」初編出版。  
2月28日 兵部省を廃し、陸軍省・海軍省を設置        
3月7日 特旨にて榎本武揚の罪を赦す。        
6月24日 北海道手宮港を小樽と改称。          
7月19日 参議西郷隆盛、陸軍元帥となり、近衛都督を兼任する。    
9月12日 新橋・横浜間鉄道開業式(鉄道記念日)        
9 永山武四郎開拓使に移り、北海道開拓使八等出仕となる。    
11月28日 徴兵の詔書出される。          
簾舞通行屋(みすまいつうこうや)は、本願寺道路の公営宿泊施設として建築された。
開場北海道産馬の改良を目的として日高管内の静内・新冠・沙流の三郡に及ぶ
  約7万ヘクタールの広大な用地に創設(新冠御料牧場の前身)。
伊達小学校の前身 岡村広前に「由学塾」を開設。  
篠路小学校前身 篠路教育所を開設。  
「北海道土地売貸規則」,「地所規則」土地を売り下げて地券を渡し私有地とする。


2008年8月7日。 日本の一番東にある根室から出発します!
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HN:
上家二三夫
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