- 2025/02/11 [PR]
- 2011/08/16 北海道へ志願して渡った士族たち 8 「泉麟太郎」
- 2011/08/15 北海道へ志願して渡った士族たち 7 「石川源太邦光」
- 2011/08/14 北海道へ志願して渡った士族たち 6 「サラキ岬に眠る「咸臨丸」」
- 2011/08/13 北海道へ志願して渡った士族たち 5 「片倉邦憲 2」
- 2011/08/12 北海道へ志願して渡った士族たち 4 「片倉邦憲 1」
- 2011/08/11 北海道へ志願して渡った士族たち 3 「伊達邦直」現当別町
- 2011/08/10 開拓使時代の政策と移民 <明治4年~7年>
- 2011/08/10 北海道へ志願して渡った士族たち 2 「伊達邦成」現伊達市
- 2011/08/09 仙台藩の移住状況 <4,512名>
- 2011/08/08 北海道官募移民<移民扶助規則>明治2年11月
北海道へ志願して渡った士族たち 8
石狩国夕張郡阿野呂川左岸(現栗山町)
明治21年 角田藩士・泉麟太郎
旧角田藩⇒室蘭郡⇒夕張郡
泉麟太郎は、実兄の添田竜吉を助けて明治21年まで室蘭市の基礎を築き、
その後室蘭の土地が狭いため、同年5月、「夕張開墾起業組合」を結成して
7戸24人が夕張郡野呂川左岸に再入植し現在の栗山町の前身を築きました。
兄が室蘭の開祖、弟が栗山の開祖となります。
開拓の2年後、明治23年に角田村が設置され、さらに、その翌年には、
日本の稲作の第一人者であった北海道庁の酒匂(さこう)財務部長の指導
援助により、稲の試作にも成功し、北海道で初めての水利土功組合を組織し、
夕張川から水を引いて稲作を振興し、角田村の基礎をつくりました。
角田村が「栗山町」と改称されるのは昭和24年。
今でも、国道234号(由仁国道)から夕張に入る道道3号の交差点近くで
は角田という地名が残っています。
泉麟太郎が夕張川に巨大な灌漑工事を思いついたのは、頭のどこかに角
田市と阿武隈川の関係を描いていたのではないかと推察されております。
開拓使によってご法度とされていたイネ作り。しかし本州からの開拓移民
にとって、米への執着は一片の禁止令で絶ち切れるものではありませんで
した。
明治26年、水田を試作して成功。その後28年に水利組合を結成し、起
業資金の借り入れのため日本勧業銀行へお百度を踏む。そのころでも北海
道における稲作は危険視されており、政府は勧業銀行に対して厳しい貸し
付け制限を加えていました。
しかし、明治29年代に入ると、各地から米作の成功がつぎつぎと伝えら
れ、この地を水田地帯に生まれかわらせようと発意したのが泉麟太郎でした。
麟太郎は明治31年4万円の借り入れに成功。この成功の背景には、自力
で施工した夕張潅漑によって、すでに2万石の産米をあげている事実があり
ました。明治32年にはそのことが発端となり、北海道拓殖銀行法、さらに
は北海道土功組合法が制定されました。
この資金によってスタートした潅漑工事は明治33年に完成。造田面積およ
そ900ヘクタール。泉麟太郎が強行した事業はみごと成功したばかりか、水
田耕作に意欲をみせている開拓者を力づけ「造田ブーム」を巻き起こります。
明治33年の角田村の戸口が1,200戸、5,000人を突破。この余勢をかって
長沼、幌向などにも角田藩の人脈が流れこんでいきます。親子2代衆議院議
員として活躍する横路家も、まぎれもない角田藩の末裔です。
今の栗山町
泉記念館
泉記念館は1898年に泉麟太郎(いずみりんたろう)が建築した木造平屋建
ての住宅で、栗山町有形文化財に指定され、内部には角田藩や泉麟太郎に関
する資料などが展示されています。
開拓記念館
開拓記念館では、開拓時から栗山町へと発展した歩みをジオラマや生活用具、
農具などを展示し後世に語り継いでいます。
○姉妹都市 宮城県角田市
北海道へ志願して渡った士族たち 7
胆振国室蘭郡チマイベツ(現室蘭市)
明治3年 仙台藩士・石川源太邦光
旧角田藩主の石川邦光(角田2万1300石)
伊具・刈田など仙南5郡は南部氏の領地となり白石藩が置かれる
胆振国室蘭郡の支配を命じられたのは、旧角田藩主の石川邦光です。
明治3年3月16日、仙台の角田村をあとにし藩主石川邦光の重臣添田竜吉と
添田の弟・泉麟太郎が率いる第一陣の移住者(44戸51人)が室蘭に着いたの
は4月6日でした。(石川邦光は開拓には来なかった)
入植した場所は、チマイベツ(石川町・香川町)に27戸、本輪西・幌萌・知利別
に17戸で、一行は、とりあえず雨露をしのぐ程度の掘っ立て小屋を組んで身を伏
せました。しかし、石川邦光の父が病気になり、家臣1,300戸の自費移住は財政
上無理、また帰農を願い出たものが多く頓挫しこれにより邦光は1ヶ月の謹慎、
その地は伊達邦成と片倉邦憲に分割されました。
明治5年9月に開拓使の通達で士族から平民に落とされてしまいます。
平民に落とされたために、開拓使からの移住に係る補助や給与、開拓費の貸付な
ども切られてしまいました。生活困窮により、若い人を連れて中山峠、本願寺道
路の土木工事に行ってお金を稼ぐことや、兄の添田龍吉と同地の輪西(わにし)
で塩や氷、そして網をつくるなどして、移住者たちの生活を支えました。
明治6年、13歳の旧藩主邦光の弟、石川光親が3戸の同志を伴って移住、さら
に明治14年には、61戸211人が移住してきました。
事業としては、石川町や本輪西町で養蚕をしたり、現在の本輪西駅前付近で鋳
物場を建て、日用家庭器具の製造も行っていました。最も成功した事業は、輪西
氷と呼ばれたもので、コィカクシ川から水を引き、貯水場を作り、夏はコイ・ヤ
マメ・ウナギを養殖し、12月からは水を凍結させ、大阪方面に出荷しましたが、
良質であるため暑い関西では大変重宝がられ好評を博しました。
北海道へ志願して渡った士族たち 6
明治3年 仙台藩士・片倉邦憲 3
サラキ岬に眠る「咸臨丸」
サラキ岬は、木古内町亀川地区に位置し、沖合では、幕末に活躍した
咸臨丸が眠るといわれています。岬からは、津軽海峡を一望し函館山を眺め
ることもできます。
チューリップ花壇や咸臨丸モニュメントなどの整備も行われ、木古内町の観光
スポットのひとつとなっています。
咸臨丸は、1857年にオランダで産声をあげ、幕府海軍創成期の主力艦と
して配備されました。1860年、木村摂津守喜毅、勝海舟、福沢諭吉、ジョ
ン万次郎など百余名を乗せ、渡米する幕府遣米使節護衛目的の随伴艦として太
平洋を渡る偉業を成し遂げるなど、幕末の動乱期に日本近代化の歴史的象徴と
して活躍しました。
しかし、その栄光とは裏腹に、晩年は戊辰戦争の渦に巻き込まれ、軍艦から
北海道への物資運搬船となり数奇な運命をたどります。
戊辰戦争で敗れ、北海道移住を余儀なくされた仙台藩片倉小十郎家臣団を乗せ
て仙台の寒風沢を出港した咸臨丸は、箱館経由で小樽に向かう途中、明治4年
10月5日、木古内町のサラキ岬沖で座礁沈没します。
北海道へ志願して渡った士族たち 5
石狩国札幌郡 (現札幌市白石区・手稲区)
旧白石藩の第三陣の移住は、これまでとは違っていました。
片倉家では、旧家老佐藤孝郷を中心とした「開拓事務所」を開設し按察使
に対して「移住の公費化」を再三にわたって訴えていました。
その願いがかなえられ第三弾の移住はこれまでと様子が違ってきました。
移住者の「貫属化」と「公費支給」(旅費・農機具の支給)さらに
「三ヵ年間の食料等の支給」が認められることになり、約600人という大集
団となります。そのために二班に分かれて出発します。
明治9年9月第一班398人は寒風沢港から「咸臨丸」に乗船して北海道
に向かいます。第二班206人は「庚午丸(こうごまる)」で出帆します。
両船は10月5日に函館を出ますが、咸臨丸は出帆直後座礁して荷物もろと
も海中に沈没してしまいます。
移住者たちは、救助されて後続の庚午丸に乗り換え同月6日にようやく
小樽に上陸。札幌にて開拓使判官岩村通俊に面会したものの、岩村はこの
ことを知らされていなかったため入植地も予定されておらず、春まで石狩
で待つように伝えられます。しかし再度交渉した結果、最月寒(もさっぷ)
への入植を認めてもらい、12月7日までに粗末な住宅47戸を20日間で作
り上げ、石狩で待機していた140戸を移住させます。視察に来た岩村判官
は感嘆し、最月寒を改め故郷の名をとって白石村と命名しました。
しかし、家老の佐藤孝郷のやり方に反感を持つ三木勉ら54戸240人は、
明治5年2月16日に石狩から発寒村に移っていった。これが手稲村です。
やがて3ヵ年間の扶助期間が過ぎると、彼らは他人に土地を売ったり、
当時九州に起こった西南戦争に志願するなどして村を離れる者もでました。
明治10年代後半になると、白石と隣接する地区に北陸地方からの農民移民
が多数入ってきたことから、農民による本格的な開拓が始まりました。
一方、第一弾・第二弾移住の幌別では開拓者の数も多くなり、開拓する
土地も少なく景範は跡取りの景光を幌別に残し、札幌郊外の上白石村に移
ります。主君景範を頼って30戸が従いますが、残った移住者は「まるで捨
てられたようだった」と当時を振り返ったといいます。
幌別郡は登別市となり温泉の町となります。登別温泉の奥にある現カルル
ス温泉は家老日野愛憙が明治19年発見し、22年に愛憙の養子久橘が木材調査
に訪れて同じ温泉を発見、30年に輪西の市田重太郎が許可を得て日野家と共同
で温泉経営をはじめることとなります。
北海道へ志願して渡った士族たち 4
胆振国幌別郡 (現登別市・胆振総合振興局)
明治3年 仙台藩士・片倉邦憲 1
旧白石藩1万8000石から55俵の禄米給与に転落、陪臣は召し放ち。
白石藩は、戊辰戦争では「奥羽越列藩同盟」の本営(司令部)となった所であり、
薩長勢力の恨みをかった。
没収された刈田郡以下仙南五郡は、土地・家屋も明け渡すこととなりました。
帰農帰商して士籍を失うことを恐れた旧片倉家は北海道への移住開拓を試
み、胆振国幌別郡を支配地として出願し、明治2年9月片倉小十郎は幌別郡
(現在の登別市周辺)移住支配を命ぜられます。
しかし、藩主邦憲は老齢のため長男の景範(かげつな)が父親に代わって
幌別郡を受領することになりました。
移住計画が進むにつれ「渡航費用捻出」(3千両)の目処がたちません。
そうこうするうちに、隣の室蘭郡支配の角田藩石川氏が罷免され、その東半
分が白石藩に増配され急いで移住しなければならなくなります。
そこで、按察府(あんさつふ・地方行政機関)が、山崎屋瀞右衛門に預けて
ある3千両を「もし返済出来ない時は、府自身で始末をつける」との裏書を
つけてようやく借用することになりました。返済は7か年で、幌別郡の特産
「秋味(鮭)・昆布」などの海産物の利益で返済。
しかし、これも狂い更に按察府が廃止となりこの保障は頓挫します。
ようやく、解体されることになっていた城が片倉家に返還されることになり、
この売却代金で落ち着きます。
明治3年6月末に幌別郡に出発した第一陣は19戸。
翌4年3月の第二陣は45戸177人・職工15人が入地しました。
北海道へ志願して渡った士族たち 3
石狩国石狩郡当別
(現石狩郡当別町・石狩振興局)
明治4年 仙台藩士・伊達邦直
岩出山1万4640石から65石に減封。城は召し上げられ家臣
(736戸の旧臣)の士分を剥奪。
陸奥国(のち陸前国)玉造郡(現・宮城県大崎市)にあった
独眼流の勇将・伊達政宗が築いた仙台藩の支藩、亘理藩の伊達邦成が
有珠郡の調査にとりかかった頃、実兄である仙台藩支藩、岩出山藩主の
伊達邦直もまた、新政府からの非情な仕打ちに苦悩していました。
侍ではなくなった家臣達は帰農を命ぜられるが、路頭に迷う事を憂い、
私財を処分し得た資金で新政府の推し進めていた北海道開拓を志願。
明治2年新政府から支配を許されたのは内陸の石狩国空知郡ナイエ
(現奈井江)でした。手付かずの空知郡は唯一の交通手段である石狩川
から遠いため、再度お願いし、厚田郡聚富(シップ)(現石狩市厚田区聚富)
を与えられます。
第一陣は明治4年3月2日に北海道へ向けて出発(移住者は43戸160人)
しかし、繋富は土質が悪く砂地が多いため作物は育たなかった。開拓使に嘆
願したところ、同地を視察に訪れた開拓使長官より移ることを許され、代替
地当別の許可を得ます。
当別への移転は明治5年を予定し再度移住者を募り第2陣の移住者
(44戸182人)は第一陣と合流し当別の開拓に当たり、明治12年の第3陣
(56戸210人)にまで及びます。
<今の当別町>
当別町の開拓の歴史を細かく書き残した小説があります。
本庄陸男(明治38年生~昭和14年没)による「石狩川」です。
伊達・岩出山藩の主従・43戸160人が、明治4年から石狩郡当別で開拓
に従事した物語です。
小説『石狩川』は、開拓責任者の吾妻(小説では阿賀妻)ら数人の先遣隊
が原野を掻き分けて、開拓の許可を受けた当別川畔を探し出すところから始ま
ります。荒々しく襲い掛かる自然が巧みに描かれ、草木による痛みや雨に濡れ
る冷たさを実感します。やがてそこに肥沃の大地を見出し、金策に苦労しなが
らも21キロの一本の道を総力で作りあげます。
昭和14年に発刊し、たちまちベストセラーになりましたが、作者はその2ヵ
月後にわずか34歳で病没しました。
この「石狩川」は、東映の佐伯清監督が豪華キャストを投入し、当時として
は空前の歴史超大作として映画化され、昭和31年に公開されたのが「大地の侍」
(大友柳太郎主演)です。幻のフィルムとも言われていますが、当別町にある
「伊達邸別館」でお願いをすると一部を観ることができます。
「北海道人のルーツ」の写真は、この本庄陸男の文学碑で、石狩川河口の
堤防に立っています。
また、本庄陸男の生誕の地は、現在チョコレートロイズの工場となり、こちらに
も碑があります。「いの一番にこの川を見つけたのは肥え太った鮭の群れでもあ
ったろうか」が刻まれております。
邦直が村政執政のため建てた伊達邸別館が残り、その横に立つ伊達記念館
には邦直縁の品々が展示されています。
○ 姉妹都市
宮城県大崎市 (旧岩出山町)
愛媛県宇和島市
(伊達政宗の長男・秀宗によって城下町が整備され、伊達家の縁)
明治4年 ◎土地政策
廃藩置県
(封建的土地支配関係が廃止,全道が開拓使の所管となった)
永住人拝借地被下方達書
(北海道に本籍を移した永住人は宅地の所有権を認め,耕地
の永代使用収益権の確認を行った)
移民(送出地⇒入植地)
▲彦根藩による移民 彦根⇒ 沙流
▲佐賀藩による移民 佐賀⇒ 釧路
▲伊達邦直家中 岩出山⇒石狩
▲会津降伏人 東京⇒ 余市
▲稲田邦植家中 洲本⇒ 静内
▲開拓使による募移民 長崎⇒ 浦河
明治5年 ●移民政策
移民扶助規則改正
◎土地政策
地所規則
・北海道土地売貸規則
(従来の拝借地は無償で私有地,既に私有する土地は処分売買可)
移民(送出地⇒入植地)
▲開拓使による募移民 鹿児島⇒ 室蘭
明治6年~7年 ●移民政策
召募移住略則
移住農民給与更正規則
開拓使屯田兵例則
北海道へ志願して渡った士族たち 2
胆振国有珠郡(現伊達市・胆振総合振興局)
明治3年 仙台藩士・伊達邦成
亘理2万3000石から130俵(58.5石)に減じられ、領地は南部藩の支配に
亘理町(わたりちょう)は、宮城県の南部、阿武隈川の河口に位置する。
2681人にものぼる武士の集団移住!!
苦悩する伊達邦成に、家老常盤新九郎(後の田村顕允)は、「このまま
この地にとどまり祖先の名を辱めるより、主従一体となり蝦夷地に移住し、
自活の道を開きましょう」と進言。
明治2年8月に胆振国有珠郡の分領支配を命じられ、翌年4月17日、
邦成自らの手で開拓の最初の鍬が打ち下され今日の伊達市開拓が始まり
ます。以後集団移住は明治14年4月まで9回に渡り2681名に及びました。
渡航から開墾、農機具に至るまで自費、粗末な居宅での越冬生活は筆舌
につくしますが、さらに明治4年の新政府による支配罷免は亘理城再興の夢をも奪いさり、邦成は移民取締に、他の家臣は武士としてではなく、農民と
なって生きることを余儀なくされます。
こうした新政府の中央集権化に加え、凶作の日々が続きますが、伊達士
族の気質と不屈の開拓魂は、邦成公のもとに固く結束して礎を築きはじめ
ることになります。伊達の街並みは築城法に則った城下町のつくり方で、
士族開拓のまちの特殊性が出ております。
<今日の伊達市>
北海道にあって四季を通じて温暖な気候に恵まれていることから
「北の湘南」とも呼ばれ、道内はもとより道外からも移り住む方々が増え
ています。
開拓時代をしのぶ記念館があります。「伊達市開拓記念館」で旧伊達市
邸跡の七千坪の敷地内に伊達家から市に寄付された多くの資料を展示して
おります。開拓記念館ボランティア「くわの会」では、訪れた方に迎賓館
や記念館の説明を聞くことができます。
また、伊達市の夏の一大イベントである伊達武者まつり
(平成23年8月6日(土)・7日(日))は、開拓の歴史と伝統を受け継
ぐ市民参加のおまつりとして昭和48年から始まりました。騎馬武者を始
め総勢約330名の甲冑武者による「伊達騎馬総陣立(じんだて)」や、勇
壮な武者絵の山車やパワーあふれる踊りが群舞する「伊達武者山車(だし)」
など、武者づくしの多彩な行事が行われます。
○ 姉妹都市
宮城県亘理町・山元町・柴田町 福島県新地町
北海道官募移民<移民扶助規則>明治2年11月
政府は、明治2年11月「移民扶助規則」を設定し、北海道移民を開拓使
自ら募集をする募移農民および募移工商、自らの力で移住して来る自移農民、
自移工商に分け、これを保護すると共に積極的に移民を募りました。
規則は、移住者には6千坪の未開地と共に家屋、家具、農具などが支給され、
3ケ月間は米と塩噌料が与えられるというものでした。
この結果、札幌近郊苗穂(なえぼ)・丘珠(おかたま)・円山(まるやま)
・平岸(ひらぎし)・月寒(つきさむ)・白石(しろいし)・手稲(ていね)
・豊平(とよひら)・生振(オヤフル)・花畔(バンナグロ)などは、これら
の移民によって開拓の端緒が開かれたのです。
明治2年9月,根室,宗谷,樺太への農工民約500人。
根室の開拓は元禄年間に始まり、明治2年に開拓使松本判官が属僚130人
を連れ来往し、根室市の基礎を築きました。同12月,酒田県から農民男女
300人。
明治3年酒田,柏崎両県から第二陣118戸,394人が札幌付近に入地。
明治4年5月,長崎,熊本両県から日高国西舎村,杵臼村(現浦河町)への
45戸,167人の入地。
明治5年鹿児島,長崎県下の漁夫百余人の招募。