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北海道の歴史(年表) 明治8年
 
1875年(明治8年)
3月20日 津軽海峡に海底電信敷設(東京・青森間、北海道間の電信開通する)。    
5月7日 ロシアと樺太・千島交換条約調印によって不明確だった樺太の国境が確定。
 5 札幌郡琴似兵村 屯田兵 第一大隊第一中隊。198      
畑小学校・尊鉢小学校開校    
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明治7年 北海道で最古の灯台<納沙布岬灯台>
 
納沙布岬灯台(のさっぷみさきとうだい)は、根室市にある納沙布岬の突端
に立つ白亜塔形の中型灯台で、北方領土や南鳥島を除いた日本最東端の地に
位置している。また、「日本の灯台50選」にも選ばれている。
かの「灯台の父」と呼ばれるリチャード・ヘンリー・ブラントンの設計によ
る八角形の木造で、北海道の洋式灯台としては最初のもの
 
ここと水晶島の間にある珸瑶瑁(ごようまい)水道は暗礁浅瀬が多く、航海
の難所として恐れられていて、灯台の建設が求められていた。
明治7年8月15日に初点灯された。


明治7年 屯田兵の開始
 
屯田兵の開始
屯田制を北海道に実施するという考えは、明治初年から様々な方面に
生まれていました。最初のものは、徳川家の遺臣を移して北方警備と
開墾に従事させようとする榎本武揚の考えで、彼はこの計画を掲げて
新政府と函館戦争を戦ったものです。
 
政府内の提案としては、明治3年(1870年)11月に開拓使が行なっ
たものがはじめです。
ついで西郷隆盛が明治4年から明治6年にかけて士族による北方警
備と開拓を主唱。西郷は計画の実現をみることなく下野したが、彼
の影響で開拓次官の黒田清隆が1873年11月に太政官に屯田制を建
議しました。
 
樺太と北海道の兵備の必要と、そのための費用を憂え、
「今略屯田の制に倣い、民を移して之に充て、且耕し且守るときは、
開拓の業封疆の守り両ながら其便を得ん」というものでした。
黒田が考えたのも士族の活用であったが、彼の場合旧松前藩と東北
諸藩の貧窮士族を想定していました。太政官は黒田の提案に賛成し
、明治7年(1874年)に屯田兵例則を定めます。
明治8年(1875年)5月、札幌郊外の琴似兵村への入地で、屯田が
開始されました。


明治6年 <エドウィン・ダン> 大規模農業の基礎
 
明治6年(1873)に明治政府との間で1年間の雇用契約を結ぶ。
(結局、開拓使が廃止されるまで1年契約を繰り返すことになる)。
 
ダンの業績
明治9年(1876)、ダンは牧羊場においては羊の飼育のほか北海道の気候に
適合する農作物の栽培実験を行い、漁牧場においては馬匹改良のため、洋種
馬と日本在来種である南部馬との交配を試み、牧牛場においては100頭あま
りの牛と80頭あまりの豚を飼育し、100ヘクタールの飼料畑を整備し、バタ
ー・チーズ・練乳の製造およびハム・ソ-セージの加工技術を指導した。
同年、開拓使が北海道に競争場を建設することを計画。
それまで北海道では直線状の馬場や角形の馬場によって速歩競走が行われて
いたに過ぎなかったことから、ダンは北海道育種場に440間(約800m)の
楕円形の馬場を建設し、襲歩による競走を行うべきだと提案。
明治10年、漁牧場の土壌が馬の飼育に適さないと判断したダンは、馬匹改良
の本拠地を新冠牧場に移すべきであると判断。
新冠牧場では千数百頭もの馬が飼育され、根岸競馬場におけるレースに優勝
する競走馬や全国博覧会で一等賞をとる馬を生産するなど名実ともに北海道
における馬産の拠点として発展した。
なお、新冠牧場は1883年に宮内省所管の新冠御料牧場となった。
 
農業分野においては、1人で馬を使役し、ソリやプラオ、カルチベータなど洋
式の大型農具を用いて農作業を行う技術を普及させたことが北海道における大
規模農業の礎になったといわれる。
なお、現在でも競馬のばんえい競走における、荷物を載せたソリを馬に牽かせ
るという競技方式に、ダンが普及させた馬の使役方法の名残をみることができる。
1886年に建設された中島競馬場はダンの設計に基づいて建設されたもの。
 
エドウィン・ダン記念館
現在、ダンの功績はエドウィン・ダン記念公園(旧真駒内中央公園、真駒内種畜産場跡)内のエドウィン・ダン記念館においてみることができる。
 


明治6年 <ベンジャミン・スミス・ライマン> 夕張炭鉱
 
<ベンジャミン・スミス・ライマン>
明治6年1月17日来日すると、東京芝に創設されたばかりの開拓使仮学校
(札幌農学校-北海道大学の前身)において教鞭をとる。
同年4月17日、北海道に向けて横浜を出航する
 
3年に及ぶ北海道全島調査は、その名目こそ地質調査であったが、地形測量
すなわち地図作成という難行をともなう「道無き道を進む」苛烈なものだった。
多くの困難を乗り越えそれを完遂すると,新生明治日本の将来に順風を送る
幌内炭田群(石狩炭田)の発見報告などとともに,1876(明治9)年5月10日,
日本最初の広域地質図幅「日本蝦夷地質要略之図」を刊行して日本地質学史に
金字塔をうちたてる。
 
夕張炭鉱 ⇒ ライマンが石炭調査を行った場所にできた炭鉱。
北炭夕張炭鉱 ⇒ ライマンが石炭調査を行った場所にできた炭鉱。


明治6年 <島松駅逓所> 北海道最古の駅逓所
 

<島松駅逓所>
駅逓は、駅舎と人馬を備えて、宿泊と運送の便をはかるため設置されたも
ので、開拓期の北海道で重要な役割を果たしました。
開拓使が廃止されるまでには111の駅逓所が作られています。
それも、開拓が各地に広がっていくにしたがって増えていき全部で238駅、
配置されていた馬の数は2835頭にもなりました。

代表的なものは、恵庭市にあった島松駅逓所で明治6年札幌本道(今の国
道36号線)が開通したのにともなって設けられました。
札幌農学校の初代教頭、クラーク博士が帰国の際に立ち寄り、
「Boys, be ambitious!(少年よ大志をいだけ)」の言葉を残した場所とし
て知られています。また、明治14年には明治天皇本道ご巡幸の際の行在所
ともなりました。
明治17年からは市内の島松に入植し、寒地稲作の父とうたわれた中山久蔵
が経営にあたっていました。
昭和59年国史跡に指定され、当時の駅逓の構造を残す建築物としては道内
最古のものです。

交通の面からだけでなく、北海道開拓に大きな役割を果たしましたが、そ
の性格上、開拓の完了、鉄道の開通などによって役目を終え廃止になって
いるものも多くあります。1946年には制度自体が廃止になりました。
 
建物を復元または現存する駅逓所

奥行臼駅逓所  <別海町>
上藻別駅逓所  <紋別市>
島松駅逓所   <北広島市>
ソーケシュオマベツ駅逓所  <喜茂別町>(北海道開拓の村に復元)
忠別太駅逓所  <旭川市>
本願寺駅逓所  <沼田町>


明治6年 <地租改正>

<地租改正>
地租改正とは、明治6年に明治政府が行った租税制度改革である。
この改革により日本にはじめて土地に対する私的所有権が確立した
ことから、地租改正は土地制度改革としての側面を有している。
 明治政府は明治7年から地租改正に着手した。

旧貢租と新地租の違い 
江戸時代までの貢租は米による物納制度であり、あくまで生産者が
納税義務者であった。また、その制度は全国で統一したものではな
く、地域毎に違いがあった。このような制度を、地租改正により、
土地の価値に見合った金銭を所有者に納めさせる全国統一の課税制
度に改めたのである。


新地租の要点としては以下の点が挙げられる。
    ・収穫量の代わりに、収穫力に応じて決められた地価を課税標準と
       した。
    ・村単位とする賦課体系を廃して、個別の土地単位で賦課を行うこ
      ととした。
    ・従前は物納であったものを、金納とした。
  ・税率を地価に対する一定率(3%:「旧来ノ歳入ヲ減ゼザルヲ目的」
      として算定)とした。
 ・耕作者ではなく、地券の発行により確認された土地所有者(地主)
      を納税義務者とした。
    ・制度を全国統一のものとした。
この地租改正は約7年にわたる大事業であった。


 北海道の歴史(年表)明治6年~明治7

明治6
1月10日 徴収令発布            
1月17日 お雇い外国人ベンジャミン・スミス・ライマン来日。      
7月28日 地租改正条令を布告。明治政府は、明治6年から明治12年にかけて地租改正を行い、
土地売買を自由にするとともに、地租の現金化を実現。土地の私有制度と明治政府の財政
  的基盤を確立。
8月17日 朝議、西郷隆盛を朝鮮派遣に内定する        
10月22日 西郷隆盛、板垣退助、副島種臣、桐野利秋ら、岩倉具視邸にて征韓論の正面衝突。
10月24日 明治天皇、征韓論を退ける(西郷隆盛、参議・近衛都督を辞職)    
エドウィン・ダン明治政府と一年契約を結ぶ。      
札幌本道(現在の国道36号)が開通。それに伴い島松駅逓所が設置された。  
 
明治7
1月4日 榎本武揚、最初の海軍中将に任命される(最初の海軍大将は明治27年の西郷従道)
2月4日 佐賀の乱江藤新平・島義勇らをリーダーとして佐賀で起こった明治政府に対する
  士族反乱。              
4月13日 江藤新平処刑。            
8月15日 北海道で最古の灯台<納沙布岬灯台>点灯。      
開拓使雇ベンジャミン・スミス・ライマン探検隊が夕張川の上流に炭層の存在を推定。
屯田兵条例設定            


北海道開拓(明治6年~明治10年)の時代背景
 
時代背景
明治政府は、明治6年から明治12年にかけて地租改正を行い、土地売買を
自由にするとともに、地租の現金化を実現しました。
地租改正によって、土地の私有制度と明治政府の財政的基盤を確立しました。

 この時期、士族の失業対策のため士族授産開墾が数多く進められました。
とりわけ、明治12年に始まった那須野原の士族開墾、国営の安積疏水や、関東
・北海道に多かった士族団体、旧領主の保護による士族開拓が進みます。
また、明治用水(明治12年着工)、那須疏水(明治17年着工)などの大規模灌
漑工事もこの時期行われています。
 一方、地主や自作農は、地租改正により土地所有権が与えられたことにより、
生産意欲が向上し、地主や上層農民たちが指導した土地改良事業が広く行われ
ました。
 これらの事業の中で特筆すべきことは、畦畔改良をはじめ、各地で水田の区画
整理が進展したことです。明治20年頃からは区画整理が活発となり、いわゆる
「田区改正」時代を迎えます。



明治5年<永山 武四郎>

1837年5月28日~明治37年(1904年)5月27日)亡くなる。
日本の陸軍軍人、華族。

天保8年鹿児島藩士、永山盛広の四男として生まれた武四郎は、同じく鹿児島
藩士の永山喜八郎の養子となる。
戊辰戦争に従軍し、維新後の明治4年7月陸軍大尉・2番大隊付に任命される。
明治5年9月から開拓使に移り、北海道開拓使八等出仕となる。
明治8年3月に陸軍准少佐・開拓使七等出仕、屯田事務局付。
明治10年4月に屯田兵第1大隊長に就任し堀基大佐の指揮のもと、西南戦争
に従軍する。
戦争から帰還した後は開拓少書記官・屯田事務局副長・屯田事務局長と累進し、
階級は屯田兵大佐となる。
 

札幌市中央区北2条東6丁目に「旧永山武四郎邸」が保存されております。
永山は明治21年6月から第2代目北海道庁長官を兼ねた方です。
また、明治22年には屯田兵司令官に就任し、北海道庁長官退任後の明治28年
には臨時第7師団司令官ともなりました。

永山武四郎については、屯田兵で詳しく掲載します。

2008年8月7日。 日本の一番東にある根室から出発します!
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