- 2025/02/09 [PR]
- 2011/09/18 明治9年 <開拓使麦酒酒造所開業>
- 2011/09/17 明治9年 <小學敎科傳習所現北海道教育大学函館分校前身>
- 2011/09/16 明治3年 <ホーレス・ケプロン>
- 2011/09/15 明治9年 <Boys, be ambitious(少年よ、大志を抱け)>
- 2011/09/14 明治9年 <ウィリアム・スミス・クラーク>
- 2011/09/13 明治9年 <札幌農学校(北海道大学の前身)>
- 2011/09/12 明治9年 <廃刀令と金禄公債証書発行条例の発布>
- 2011/09/11 北海道の歴史(年表) 明治9年
- 2011/09/10 明治8年 札幌郡琴似(ことに)村開拓<本格的な屯田兵が入植>
- 2011/09/09 明治8年5月7日<ロシアと樺太・千島交換条約調印>
2011/09/18 00:05:54
明治9年 <開拓使麦酒酒造所開業>
ロシアの南下政策への対抗策として明治2年に設置された開拓使は、殖産興業
に燃える新政府の切り札として大いに期待され、外国人技師の招へいが行われて
「開拓使麦酒醸造所」を含む30種以上の官営工場が開設されました。
輸入品の「舶来ビール」や横浜の外国人技師が作る「居留地ビール」が発信源と
なって次第に認知度が高まっていたビールは新時代を象徴する飲み物で、国内消
費や輸出向けの有望なマーケットが誕生する可能性を秘めていました。
そうしたことから、ホップが自生する土地で、ビール大麦の栽培にも適しており
原料の自給自足が可能なこと、低温で発酵させるための氷が入手しやすいことな
ど、気候風土がビールづくりに適している北海道に、政府の勧農・殖産興業政策
に合致するビール醸造事業が導入されることになりました。
開拓使麦酒醸造所によるビールづくりは明治9年に醸造所の建設から始まり、
明治10年夏には、本場ドイツで修業した日本人初のブラウマイスター中川清兵衛
によって仕込まれた第1号商品冷製「札幌ビール」が、サッポロビールのトレード
マークである「五稜星」★が描かれた開拓使旗 (北辰旗) を立てた船艦によって
東京へと運ばれました。
開拓使ビールの発売からほぼ10年後、数知れないほどの困難を乗り越えた先駆者
たちの努力によって国産ビールの総生産量はついに舶来ビールの輸入量を上回ります。
その後、開拓使麦酒醸造所は渋沢栄一らが経営に参画し、民間会社の「札幌麦酒会社」
として新たなスタートを切ります。
ロシアの南下政策への対抗策として明治2年に設置された開拓使は、殖産興業
に燃える新政府の切り札として大いに期待され、外国人技師の招へいが行われて
「開拓使麦酒醸造所」を含む30種以上の官営工場が開設されました。
輸入品の「舶来ビール」や横浜の外国人技師が作る「居留地ビール」が発信源と
なって次第に認知度が高まっていたビールは新時代を象徴する飲み物で、国内消
費や輸出向けの有望なマーケットが誕生する可能性を秘めていました。
そうしたことから、ホップが自生する土地で、ビール大麦の栽培にも適しており
原料の自給自足が可能なこと、低温で発酵させるための氷が入手しやすいことな
ど、気候風土がビールづくりに適している北海道に、政府の勧農・殖産興業政策
に合致するビール醸造事業が導入されることになりました。
開拓使麦酒醸造所によるビールづくりは明治9年に醸造所の建設から始まり、
明治10年夏には、本場ドイツで修業した日本人初のブラウマイスター中川清兵衛
によって仕込まれた第1号商品冷製「札幌ビール」が、サッポロビールのトレード
マークである「五稜星」★が描かれた開拓使旗 (北辰旗) を立てた船艦によって
東京へと運ばれました。
開拓使ビールの発売からほぼ10年後、数知れないほどの困難を乗り越えた先駆者
たちの努力によって国産ビールの総生産量はついに舶来ビールの輸入量を上回ります。
その後、開拓使麦酒醸造所は渋沢栄一らが経営に参画し、民間会社の「札幌麦酒会社」
として新たなスタートを切ります。
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2011/09/16 00:59:24
明治3年 <ホーレス・ケプロン>
1804年8月31日 - 1885年2月22日没
アメリカ合衆国の軍人、政治家。お雇い外国人の1人。
マサチューセッツ州の豪農の家に生まれ南北戦争に北軍義勇兵として従軍後、
アメリカ合衆国政府で農務局長となった。
明治3年(1871年)渡米していた黒田清隆に懇願され、職を辞し、同年7月訪日。
開拓使御雇教師頭取兼開拓顧問となる。1875年5月帰国。
日本では積極的に北海道の視察を行い、多くの事業を推進した。
札幌農学校開学までのお膳立てをしたのもケプロンである。
ケプロンの仕事は多岐に渡り、北海道の道路建設、鉱業、工業、農業、水産業
など、開拓のほぼ全領域に渡っている。
北海道は寒く、イネが育たないため、麦をつくることを奨励。
北海道ではパン食を推進すべきだと主張した。
単に魚をとるだけでなく、塩漬けなどに加工すれば重要な輸出品になると進言。
ケプロンの進言に従い、1877年10月10日(ケプロン離日後)、日本初の缶詰量
産工場である石狩缶詰所が作られた。
この日(10月10日)は、日本では缶詰の日になっている。
開拓使はこれ以外にも道内沿岸部に次々とサケ缶詰製造工場を建設した。
ケプロンの進言に従い、札幌-室蘭間、森-函館間までの馬車道が整備された
(室蘭-森間は航路)。この道は札幌本道と呼ばれ、ほぼ現在の国道5号線である。
札幌大通り公園に黒田清隆像と並んで銅像が建っている。
1804年8月31日 - 1885年2月22日没
アメリカ合衆国の軍人、政治家。お雇い外国人の1人。
マサチューセッツ州の豪農の家に生まれ南北戦争に北軍義勇兵として従軍後、
アメリカ合衆国政府で農務局長となった。
明治3年(1871年)渡米していた黒田清隆に懇願され、職を辞し、同年7月訪日。
開拓使御雇教師頭取兼開拓顧問となる。1875年5月帰国。
日本では積極的に北海道の視察を行い、多くの事業を推進した。
札幌農学校開学までのお膳立てをしたのもケプロンである。
ケプロンの仕事は多岐に渡り、北海道の道路建設、鉱業、工業、農業、水産業
など、開拓のほぼ全領域に渡っている。
北海道は寒く、イネが育たないため、麦をつくることを奨励。
北海道ではパン食を推進すべきだと主張した。
単に魚をとるだけでなく、塩漬けなどに加工すれば重要な輸出品になると進言。
ケプロンの進言に従い、1877年10月10日(ケプロン離日後)、日本初の缶詰量
産工場である石狩缶詰所が作られた。
この日(10月10日)は、日本では缶詰の日になっている。
開拓使はこれ以外にも道内沿岸部に次々とサケ缶詰製造工場を建設した。
ケプロンの進言に従い、札幌-室蘭間、森-函館間までの馬車道が整備された
(室蘭-森間は航路)。この道は札幌本道と呼ばれ、ほぼ現在の国道5号線である。
札幌大通り公園に黒田清隆像と並んで銅像が建っている。
2011/09/15 00:57:30
明治9年 <Boys, be ambitious(少年よ、大志を抱け)>
クラークの言葉、「Boys, be ambitious」は、よく知られている。
これは、札幌農学校1期生との別れの際に、
北海道札幌郡月寒村島松(現在の恵庭市島松・島松駅逓所)でクラークが発した
ものとされている。
しかし、この文言は、クラークの離日後しばらくは記録したものがなく、後世の
創作によるものだと考えられた時代があった。
1期生の大島正健(後の甲府中学校(現甲府第一高等学校)の学校長)による離
別を描いた漢詩に、「青年奮起立功名」とあることから、これを逆翻訳したもの
とも言われた。
しかし、大島が札幌農学校創立15周年記念式典で行った講演内容を、安東幾三
郎が記録。安東が当時札幌にいた他の1期生に確認の上、この英文をクラークの
言葉として、1894年ごろに同窓会誌『恵林』13号に発表していたことが判明。
安東によれば、全文は「Boys, be ambitious like this old man」であり、この
まま訳すと「この老人のように、あなたたち若い人も野心的であれ」という意
味になる。安東の発表の後、大島自身が内村鑑三編集の雑誌の記述で、全く同
じ文章を使ったことも判明した。また大島は、「クラーク先生とその弟子たち」
の中では、次のように述べている。
先生をかこんで別れがたなの物語にふけっている教え子たち一人一人その顔を
のぞき込んで、「どうか一枚の葉書でよいから時折消息を頼む。常に祈ること
を忘れないように。では愈御別れじゃ、元気に暮らせよ。」
といわれて生徒と一人々々握手をかわすなりヒラリと馬背に跨り、
"Boys, be ambitious!" と叫ぶなり、長鞭を馬腹にあて、雪泥を蹴って疎林の
かなたへ姿をかき消された。
この時に「Boys, be ambitious in Christ (God)」と言ったという説がある。
また、「青年よ、金、利己、はかなき名声を求むるの野心を燃やすことなく、
人間の本分をなすべく大望を抱け」と述べたという説がある。
また、「Boys, be ambitious」は、クラークの創作ではなく、当時、彼の出身
地のニューイングランド地方でよく使われた別れの挨拶(「元気でな」の意)
だったという説もある。
●内村鑑三は、「後世への最大遺物」において、「ものを教える」技能を有し教育
で貢献する人物の例として挙げ、農学校時代にクラークを第一級の学者であると
思っていたが、米国に渡ってみるとある学者に「クラークが植物学で口を利くな
ど不思議だ」と笑われたほどで、「先生、だいぶ化けの皮が現れた」。
しかし、青年に植物学を教え、興味を持たせる力があったとして、「植物学の先生
としては非常に価値のあった人でありました」と高く評価している。
クラークの言葉、「Boys, be ambitious」は、よく知られている。
これは、札幌農学校1期生との別れの際に、
北海道札幌郡月寒村島松(現在の恵庭市島松・島松駅逓所)でクラークが発した
ものとされている。
しかし、この文言は、クラークの離日後しばらくは記録したものがなく、後世の
創作によるものだと考えられた時代があった。
1期生の大島正健(後の甲府中学校(現甲府第一高等学校)の学校長)による離
別を描いた漢詩に、「青年奮起立功名」とあることから、これを逆翻訳したもの
とも言われた。
しかし、大島が札幌農学校創立15周年記念式典で行った講演内容を、安東幾三
郎が記録。安東が当時札幌にいた他の1期生に確認の上、この英文をクラークの
言葉として、1894年ごろに同窓会誌『恵林』13号に発表していたことが判明。
安東によれば、全文は「Boys, be ambitious like this old man」であり、この
まま訳すと「この老人のように、あなたたち若い人も野心的であれ」という意
味になる。安東の発表の後、大島自身が内村鑑三編集の雑誌の記述で、全く同
じ文章を使ったことも判明した。また大島は、「クラーク先生とその弟子たち」
の中では、次のように述べている。
先生をかこんで別れがたなの物語にふけっている教え子たち一人一人その顔を
のぞき込んで、「どうか一枚の葉書でよいから時折消息を頼む。常に祈ること
を忘れないように。では愈御別れじゃ、元気に暮らせよ。」
といわれて生徒と一人々々握手をかわすなりヒラリと馬背に跨り、
"Boys, be ambitious!" と叫ぶなり、長鞭を馬腹にあて、雪泥を蹴って疎林の
かなたへ姿をかき消された。
この時に「Boys, be ambitious in Christ (God)」と言ったという説がある。
また、「青年よ、金、利己、はかなき名声を求むるの野心を燃やすことなく、
人間の本分をなすべく大望を抱け」と述べたという説がある。
また、「Boys, be ambitious」は、クラークの創作ではなく、当時、彼の出身
地のニューイングランド地方でよく使われた別れの挨拶(「元気でな」の意)
だったという説もある。
●内村鑑三は、「後世への最大遺物」において、「ものを教える」技能を有し教育
で貢献する人物の例として挙げ、農学校時代にクラークを第一級の学者であると
思っていたが、米国に渡ってみるとある学者に「クラークが植物学で口を利くな
ど不思議だ」と笑われたほどで、「先生、だいぶ化けの皮が現れた」。
しかし、青年に植物学を教え、興味を持たせる力があったとして、「植物学の先生
としては非常に価値のあった人でありました」と高く評価している。
2011/09/14 00:55:36
明治9年 <ウィリアム・スミス・クラーク>
1826年7月31日 - 1886年3月9日没
札幌農学校(現北海道大学)初代教頭。お雇い外国人のひとり。
専門の植物学だけでなく、自然科学一般を英語で教えた。
学生達に聖書を配り、キリスト教についても講じた。
マサチューセッツ州で生まれアマースト大学卒業。ドイツのゲッティンゲン大学
にて博士号取得後、アマースト大学教授となる(当時、アマースト大学に在学し
ていた後の同志社英学校創設者である新島襄が最初の日本人学生であった)。
南北戦争には北軍少佐として従軍。
マサチューセッツ農科大学(現マサチューセッツ大学アマースト校)第3代学長
に就任した。任期中には新島襄の紹介により、日本政府の熱烈な要請を受けて、
明治9年7月に札幌農学校教頭に赴任する。マサチューセッツ農科大学の1年間
の休暇を利用して訪日するという形をとった。
クラークの立場は教頭で、名目上は別に校長がいたが、クラークの職名は英語で
はPresident と表記することが開拓使によって許可され、
殆ど実質的にはクラークが校内の全てを取り仕切っていた。
8ヶ月の札幌滞在の後、翌年の1877年5月に離日した。
1826年7月31日 - 1886年3月9日没
札幌農学校(現北海道大学)初代教頭。お雇い外国人のひとり。
専門の植物学だけでなく、自然科学一般を英語で教えた。
学生達に聖書を配り、キリスト教についても講じた。
マサチューセッツ州で生まれアマースト大学卒業。ドイツのゲッティンゲン大学
にて博士号取得後、アマースト大学教授となる(当時、アマースト大学に在学し
ていた後の同志社英学校創設者である新島襄が最初の日本人学生であった)。
南北戦争には北軍少佐として従軍。
マサチューセッツ農科大学(現マサチューセッツ大学アマースト校)第3代学長
に就任した。任期中には新島襄の紹介により、日本政府の熱烈な要請を受けて、
明治9年7月に札幌農学校教頭に赴任する。マサチューセッツ農科大学の1年間
の休暇を利用して訪日するという形をとった。
クラークの立場は教頭で、名目上は別に校長がいたが、クラークの職名は英語で
はPresident と表記することが開拓使によって許可され、
殆ど実質的にはクラークが校内の全てを取り仕切っていた。
8ヶ月の札幌滞在の後、翌年の1877年5月に離日した。
2011/09/11 00:47:32
北海道の歴史(年表) 明治9年
1月14日 | 千島に占守郡などを設く。 | |||||||
1月26日 | 日鮮修好条約調印。 | |||||||
3月 | 廃刀令。 | |||||||
3月31日 | 三井銀行誕生。 | |||||||
7月 | ウィリアム・スミス・クラーク来日。札幌農学校(現北海道大学)初代教頭に赴任。 | |||||||
8月14日 | 札幌農学校設立。 | |||||||
8月 | 金禄公債証書発行条例の発布 | |||||||
9月 | 札幌郡発寒村 屯田兵 第一大隊第一中隊に編入。32戸。 | |||||||
札幌郡山鼻兵村 屯田兵 第一大隊第二中隊。240戸。 | ||||||||
9月15日 | 室蘭市立常盤小学校前身開設。 | |||||||
12月19日 | 函館の海防に備え湾岸砲台を設ける(砲12門に中隊長以下92人を置く)。 | |||||||
※ | ベンジャミン・スミス・ライマン「日本蝦夷地質要略之図」が完成。 | |||||||
日本で最初の本格的地質地図。 | ||||||||
※ | 小學敎科傳習所 現北海道教育大学函館分校前身 | |||||||
※ | 開拓使麦酒酒造所開業 |
2011/09/10 00:43:57
札幌郡琴似(ことに)村開拓<本格的な屯田兵が入植>
現在の西区琴似地区に屯田兵が入植。琴似(ことに)村となる。
明治8年には仙台亘理(わたり)藩(宮城県)、斗南(となみ)藩(青森県の南部地方)、
庄内藩(山形県)の士族たちが琴似地区(現在の琴似本通沿い)に、
翌9年には発寒地区(現在の稲荷線沿い)にそれぞれ入植し屯田兵村を形成しました。
一方、旧手稲町地域の開拓は、明治4年西野地区に越後から5戸が入植したのが始まりと
されているが、本格的なものは明治5年仙台藩(宮城県)白石城主片倉小十郎の家臣たち
が宮の沢地区に47戸入植したのが最初です。
その後、明治20年までに西野、平和、福井などの地区に広島県人や福井県人などが相次いで入植。
人々は遠大な札幌建設計画に基づいて、鉄道を敷き、産業を興して、道都・札幌を築く。
北海道開拓使によって、京都あるいは、アメリカ合衆国のタウンシップ制をモデルとした碁盤目状の計画都市として本格的に開発された。
現在の西区琴似地区に屯田兵が入植。琴似(ことに)村となる。
明治8年には仙台亘理(わたり)藩(宮城県)、斗南(となみ)藩(青森県の南部地方)、
庄内藩(山形県)の士族たちが琴似地区(現在の琴似本通沿い)に、
翌9年には発寒地区(現在の稲荷線沿い)にそれぞれ入植し屯田兵村を形成しました。
一方、旧手稲町地域の開拓は、明治4年西野地区に越後から5戸が入植したのが始まりと
されているが、本格的なものは明治5年仙台藩(宮城県)白石城主片倉小十郎の家臣たち
が宮の沢地区に47戸入植したのが最初です。
その後、明治20年までに西野、平和、福井などの地区に広島県人や福井県人などが相次いで入植。
人々は遠大な札幌建設計画に基づいて、鉄道を敷き、産業を興して、道都・札幌を築く。
北海道開拓使によって、京都あるいは、アメリカ合衆国のタウンシップ制をモデルとした碁盤目状の計画都市として本格的に開発された。
2011/09/09 00:19:23
明治8年5月7日<ロシアと樺太・千島交換条約調印>
明治2年、北方開拓のために「開拓使」が置かれ、歯舞群島、色丹島、国後島、択捉島は
郡制の中に組み入れられました。
樺太では、ロシアが日本の根拠地に迫ってきたため、樺太を北上して漁場を拡張しつつあ
った日本人との間に紛争が絶えませんでした。
ロシア人は確実に要所を狙って植民地を建設していくのに対して、日本は漁場の拡張に
主眼を置いていたため、次第に圧迫されるようになりました。
このような現状を打破するため、明治政府は明治7年に榎本武揚を特命全権大使として
ロシアに派遣し、明治8年5月7日、ロシア全権ゴルチャコフ首相との間で「樺太千島交換条約」
を締結しました。
この条約によって、「日魯通好条約」で両国民混住の地とされた樺太全島はロシア領となり、
その代りに、ロシア領であったクリル諸島(得撫島から占守島までの18島)が日本の領土となりました。
明治2年、北方開拓のために「開拓使」が置かれ、歯舞群島、色丹島、国後島、択捉島は
郡制の中に組み入れられました。
樺太では、ロシアが日本の根拠地に迫ってきたため、樺太を北上して漁場を拡張しつつあ
った日本人との間に紛争が絶えませんでした。
ロシア人は確実に要所を狙って植民地を建設していくのに対して、日本は漁場の拡張に
主眼を置いていたため、次第に圧迫されるようになりました。
このような現状を打破するため、明治政府は明治7年に榎本武揚を特命全権大使として
ロシアに派遣し、明治8年5月7日、ロシア全権ゴルチャコフ首相との間で「樺太千島交換条約」
を締結しました。
この条約によって、「日魯通好条約」で両国民混住の地とされた樺太全島はロシア領となり、
その代りに、ロシア領であったクリル諸島(得撫島から占守島までの18島)が日本の領土となりました。