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明治12年 <函館の大火・明治12年12月6日
 
午後8時半頃,堀江町(現末広町)から出火。
堀江町,天神町,地蔵町,船見町,船場町,駒止町,内澗町,台町,
東浜町,山背泊町,仲浜町,元町,大町,会所町,富岡町,上大工町,
松蔭町,下大工町,愛宕町,茶屋町,山の上町,仲新町,本新町,
上新町,下新町,鍛治町,芝居町,花谷町,梅ヶ枝町,常盤町,坂町,
片町,神明横町の各町33箇所,2,326戸焼失した。
うち,官庁,学校,寺社,会社当31を含む大被害を被った。
 
この火災の原因は放火(推定)で,折からの強風により火の粉は遠近
に飛散して各所に飛火火災が発生し,消火不可能な状態となり未曾有
の大火となった。
この大火は,市内の重要部分を焼き払ったので,函館は一時ほとんど
消滅した如く誠に惨状極まるものだった。
 
両陛下より3,000円の御下賜金を賜り,また有栖川,北白川両宮家
より500円を下賜され,その他集る義金は12,100余円に達した。

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明治12年 <幌内炭鉱>
 
幌内炭鉱(ほろないたんこう)とは、北海道三笠市(開山当時は幌内村)
に存在した炭鉱。お雇い外国人による指導で、官営の炭鉱として開山。
 
石炭層の発見~採炭から輸送に至るまで機械化が進められた、日本の
近代炭鉱の先駆け的存在。
明治期の近代化から太平洋戦争後の復興期まで、縁の下で日本を支えた
歴史的に重要な炭鉱の一つである。
独立系の炭鉱会社も数社が開発を手がけたが、開発の主力を担ったのは
北海道最大の炭鉱会社、北炭
北炭の本鉱の立坑は、延長1,000mを越える日本最大規模となった。
最終的に北炭の生産量は、100万トンを越えている。
1889年北炭が幌内炭礦と幌内鉄道の払い下げを受け民営化。1989年閉山。


1879年(明治12年)                
内務大臣伊藤博文の意見書によって,北海道の炭鉱(幌内炭鉱)・鉱山(硫黄山)      
での囚人労働が始まる。樺戸(月形町),空知(三笠市),釧路(標茶町),網走(網走市),      
  十勝(帯広市)に集治監が作られる。      
                       
4月4日 琉球藩を廃止、沖縄県とする              
6月4日 東京招魂社を別格官弊社とし、靖国神社と改称(内務・陸軍・海軍3省の管理とする)
8月1日 日本最初の損害保険会社開業(東京海上火災保険会社)          
幌内炭鉱が開かれる                  
仁木村の成立。仁木竹吉(にきたけよし)ら360余名が徳島県(現在の徳島吉野川市)      
  から集団で入植したのが和人定住の始まりで、翌年に仁木村が成立した。        
  仁木町の名は仁木竹吉にちなむ。              
10月 千歳村で初の寺子屋式教育を始める(現千歳小学校)      
12月6日 函館の大火                  


 明治11年   <第一回農業仮博覧会>     
 

 明治11年に札幌大通西二丁目と大通西三丁目に第一回農業仮博覧会の会場
 が設けられ、これ以後各種催しの会場になった。    
 この場所より西に行くと町の賑わいはなくなり、大通西十丁目以西の部分は屯田兵
 の練兵場でした。明治9年に、大通西三丁目、大通西四丁目に二千坪(約6600m2)の
 花壇が作られた。      
 さらに明治42年に造園設計家の長岡安平を招いて逍遙地としての整備を行ったのが
 大通公園のはじまりとされている。    


 明治11年 <八雲町開拓/尾張藩主徳川慶勝>
 
 
旧八雲町は開拓の祖、旧尾張藩(名古屋)主徳川慶勝侯が北海道開拓と併せて旧臣授
産のため、遊楽部の土地の下付を願い出て明治11年、家族  持15戸、単身者10名
  総人員72名を移住させたことから本格的に開拓が進められた。
 これが、八雲町の組織的団体移住者のはじまりであった。
  その後年々移住する戸数が増加して明治14年黒岩とともに独立して八雲村となった。
 
 
  町名は明治14年に徳川御三家の一つ、旧藩主徳川慶勝侯が、豊かで平和な
  理想郷建設を願い、古事記所載の日本最古の和歌である須佐之男命(古事記)
  素盞嗚尊(日本書紀)(スサノオノミコト)が読んだ
  「八雲立つ 出雲八重垣妻籠みに 八重垣作る その八重垣を」
    を引いて名付けた。
   その後国道の開通により、役場をはじめ各施設機関が漸次山越内村から
   八雲村に移り、明治35年北海道2級町村制施行により両村が併合して八
   雲村ができあがった。明治36年に鉄道が開通し、38年に片栗粉同業組
   合の設立により澱粉製造業が急激に発展し、関西市場の覇権を握って
    “八雲片栗粉”の声価を博すようになった。



1878年(明治11年)      
4月18日 山鼻小学校前身開設           
5月10日 渋沢栄一ら、資本金20万円にて東京兜町に株取引所設立    
7月15日 日本初の本格リゾートホテル、富士屋ホテル開業。      
8月  札幌郡江別兵村 屯田兵 第一大隊付属江別分隊。10戸    
10月 第一回農業仮博覧会開催          
11月7日 上ノ国小学校前身開設。(勝山小学校)        
増毛小学校前身開設。          
浜益教育所を茂生に置く。          
八雲町・旧尾張藩(名古屋)主徳川慶勝侯開拓。  


<小學科授業傳習生徒敎場(北海道教育大学札幌校前身)>
沿革
1877 小學科授業傳習生徒敎場
1879 敎員速成科
1882 師範速成科
1883 縣立札幌師範學校
1886 廳(庁)立札幌師範學校
1886 北海道師範學校
1887 北海道尋常師範學校
1898 北海道師範學校
1914 北海道札幌師範學校
1943 北海道第一師範學校


    <西南戦争と屯田兵>
 
   
  西南戦争が勃発した明治10年2月、屯田事務局は黒田開拓長官の命令で、
 屯田兵小隊を函館港に派遣した。第一中隊の安田安中尉が30名の部下とともに出動
 し、約1カ月間船舶を監視する任務に就いた。反乱の拡大がないと見極めが
 着いた3月下旬に引き揚げた。
 
       
 4月10日黒田長官は屯田兵第一大隊、つまりは屯田兵全部隊に出征を命じた
 屯田兵は小樽港から出向し、熊本県の百貫に着き、小島町に宿営した。
 27日に別働第二旅団に所属することが決まり、鎮台兵一中隊と狙撃兵若干
 が配属された。以後、屯田兵は八代から人吉への進撃に加わって、交戦を
 重ねた。屯田兵の下士兵卒には東北諸藩の士族出身が多かったので、戊辰
 戦争の敵だった鹿児島県士族を相手とするこの戦争に奮い立った。
 しかし、将校の地位を占めた鹿児島県出身者には戦意が乏しく、8月2日の
 一瀬川の戦いを観戦したある官軍将校は、屯田部隊で「戦争をしている
 のは下士兵卒で将校ではない」と評したという。戦争の終わりが見える
 と8月16日に帰郷命令を受けた。      
 戦争中、屯田兵は戦死7人、戦病死20人、負傷20人の損害を出した。
 屯田兵は都ノ城、神戸、東京を経由して9月30日に札幌に戻った。
 途中、9月3日に屯田予備兵とともに明治天皇の観閲を受け、慰労の言葉を
 賜った。戦後の論功行賞は、非難の的だった鹿児島出身将校に厚く勇
 戦した他藩出身者に薄かったため、1人の将校が抗議の切腹をした。


 <西南戦争>      
 現在の熊本県・宮崎県・大分県・鹿児島県において西郷隆盛を盟主にして  
 起こった士族による武力反乱。丁丑の乱、十年戦争、私学校戦争とも呼ば  
 れ明治初期の一連の士族反乱のうち最大規模で日本最後の内戦となった。  



北海道の歴史(年表) 明治10
 
 
2月3日 西郷隆盛、私学党を率いて遂に官軍対抗の意を決す。
2月15日 西郷隆盛が挙兵(西南戦争始まる)。2月22日西郷軍、熊本城を包囲。
  3月3日官軍、薩軍と田原坂で激戦。3月20日政府軍、激戦の末、田原坂を占領。
4月14日黒田清隆率いる政府軍、熊本城に入る。5月31日薩摩軍敗れて、悉く肥後人吉に退く。
  9月8日官軍、鹿児島城山を包囲。
9月24日 西郷隆盛、桐野利秋ら城山で自決。(西南戦争終結)
琴似小学校前身開設。      
開拓使雇エドウィン・ダンの意見と設計に基づき、近代西洋式牧場として再編整備され
  「新冠牧馬場」と改称する。      
札幌ビール発売    
「北海道地券発行条例」地価査定・地租創定,先住民アイヌ民族の居住地も含めた
  大部分は国有地とされ,その中から広大な御料地(北海道全面積の2割強)が作られた。
             


2008年8月7日。 日本の一番東にある根室から出発します!
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HN:
上家二三夫
性別:
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