- 2025/02/09 [PR]
- 2011/09/28 明治12年 <函館の大火・明治12年12月6日>
- 2011/09/27 明治12年 <幌内炭鉱>
- 2011/09/26 北海道の歴史(年表) 明治12年
- 2011/09/25 明治11年 <第一回農業仮博覧会>
- 2011/09/24 明治11年 <八雲町開拓/尾張藩主徳川慶勝>
- 2011/09/23 北海道の歴史(年表) 明治11年
- 2011/09/22 明治10年 <小學科授業傳習生徒敎場(北海道教育大学札幌校前身)>
- 2011/09/21 明治10年 <西南戦争と屯田兵>
- 2011/09/20 明治10年 <西南戦争>
- 2011/09/19 北海道の歴史(年表) 明治10年
2011/09/28 00:44:11
明治12年 <函館の大火・明治12年12月6日>
午後8時半頃,堀江町(現末広町)から出火。
堀江町,天神町,地蔵町,船見町,船場町,駒止町,内澗町,台町,
東浜町,山背泊町,仲浜町,元町,大町,会所町,富岡町,上大工町,
松蔭町,下大工町,愛宕町,茶屋町,山の上町,仲新町,本新町,
上新町,下新町,鍛治町,芝居町,花谷町,梅ヶ枝町,常盤町,坂町,
片町,神明横町の各町33箇所,2,326戸焼失した。
うち,官庁,学校,寺社,会社当31を含む大被害を被った。
この火災の原因は放火(推定)で,折からの強風により火の粉は遠近
に飛散して各所に飛火火災が発生し,消火不可能な状態となり未曾有
の大火となった。
この大火は,市内の重要部分を焼き払ったので,函館は一時ほとんど
消滅した如く誠に惨状極まるものだった。
両陛下より3,000円の御下賜金を賜り,また有栖川,北白川両宮家
より500円を下賜され,その他集る義金は12,100余円に達した。
午後8時半頃,堀江町(現末広町)から出火。
堀江町,天神町,地蔵町,船見町,船場町,駒止町,内澗町,台町,
東浜町,山背泊町,仲浜町,元町,大町,会所町,富岡町,上大工町,
松蔭町,下大工町,愛宕町,茶屋町,山の上町,仲新町,本新町,
上新町,下新町,鍛治町,芝居町,花谷町,梅ヶ枝町,常盤町,坂町,
片町,神明横町の各町33箇所,2,326戸焼失した。
うち,官庁,学校,寺社,会社当31を含む大被害を被った。
この火災の原因は放火(推定)で,折からの強風により火の粉は遠近
に飛散して各所に飛火火災が発生し,消火不可能な状態となり未曾有
の大火となった。
この大火は,市内の重要部分を焼き払ったので,函館は一時ほとんど
消滅した如く誠に惨状極まるものだった。
両陛下より3,000円の御下賜金を賜り,また有栖川,北白川両宮家
より500円を下賜され,その他集る義金は12,100余円に達した。
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2011/09/27 00:39:09
明治12年 <幌内炭鉱>
幌内炭鉱(ほろないたんこう)とは、北海道三笠市(開山当時は幌内村)
に存在した炭鉱。お雇い外国人による指導で、官営の炭鉱として開山。
石炭層の発見~採炭から輸送に至るまで機械化が進められた、日本の
近代炭鉱の先駆け的存在。
明治期の近代化から太平洋戦争後の復興期まで、縁の下で日本を支えた
歴史的に重要な炭鉱の一つである。
独立系の炭鉱会社も数社が開発を手がけたが、開発の主力を担ったのは
北海道最大の炭鉱会社、北炭。
北炭の本鉱の立坑は、延長1,000mを越える日本最大規模となった。
最終的に北炭の生産量は、100万トンを越えている。
1889年北炭が幌内炭礦と幌内鉄道の払い下げを受け民営化。1989年閉山。
幌内炭鉱(ほろないたんこう)とは、北海道三笠市(開山当時は幌内村)
に存在した炭鉱。お雇い外国人による指導で、官営の炭鉱として開山。
石炭層の発見~採炭から輸送に至るまで機械化が進められた、日本の
近代炭鉱の先駆け的存在。
明治期の近代化から太平洋戦争後の復興期まで、縁の下で日本を支えた
歴史的に重要な炭鉱の一つである。
独立系の炭鉱会社も数社が開発を手がけたが、開発の主力を担ったのは
北海道最大の炭鉱会社、北炭。
北炭の本鉱の立坑は、延長1,000mを越える日本最大規模となった。
最終的に北炭の生産量は、100万トンを越えている。
1889年北炭が幌内炭礦と幌内鉄道の払い下げを受け民営化。1989年閉山。
2011/09/26 00:59:04
1879年(明治12年) | |||||||||||
内務大臣伊藤博文の意見書によって,北海道の炭鉱(幌内炭鉱)・鉱山(硫黄山) | |||||||||||
での囚人労働が始まる。樺戸(月形町),空知(三笠市),釧路(標茶町),網走(網走市), | |||||||||||
十勝(帯広市)に集治監が作られる。 | |||||||||||
4月4日 | 琉球藩を廃止、沖縄県とする | ||||||||||
6月4日 | 東京招魂社を別格官弊社とし、靖国神社と改称(内務・陸軍・海軍3省の管理とする) | ||||||||||
8月1日 | 日本最初の損害保険会社開業(東京海上火災保険会社) | ||||||||||
※ | 幌内炭鉱が開かれる | ||||||||||
※ | 仁木村の成立。仁木竹吉(にきたけよし)ら360余名が徳島県(現在の徳島吉野川市) | ||||||||||
から集団で入植したのが和人定住の始まりで、翌年に仁木村が成立した。 | |||||||||||
仁木町の名は仁木竹吉にちなむ。 | |||||||||||
10月 | 千歳村で初の寺子屋式教育を始める(現千歳小学校) | ||||||||||
12月6日 | 函館の大火 |
2011/09/24 00:34:09
明治11年 |
<八雲町開拓/尾張藩主徳川慶勝> |
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旧八雲町は開拓の祖、旧尾張藩(名古屋)主徳川慶勝侯が北海道開拓と併せて旧臣授 | ||||||
産のため、遊楽部の土地の下付を願い出て明治11年、家族 持15戸、単身者10名 | ||||||
総人員72名を移住させたことから本格的に開拓が進められた。 | ||||||
これが、八雲町の組織的団体移住者のはじまりであった。 | ||||||
その後年々移住する戸数が増加して明治14年黒岩とともに独立して八雲村となった。 |
||||||
町名は明治14年に徳川御三家の一つ、旧藩主徳川慶勝侯が、豊かで平和な | ||||||
理想郷建設を願い、古事記所載の日本最古の和歌である須佐之男命(古事記) | ||||||
素盞嗚尊(日本書紀)(スサノオノミコト)が読んだ | ||||||
「八雲立つ 出雲八重垣妻籠みに 八重垣作る その八重垣を」 | ||||||
を引いて名付けた。 | ||||||
その後国道の開通により、役場をはじめ各施設機関が漸次山越内村から | ||||||
八雲村に移り、明治35年北海道2級町村制施行により両村が併合して八 | ||||||
雲村ができあがった。明治36年に鉄道が開通し、38年に片栗粉同業組 | ||||||
合の設立により澱粉製造業が急激に発展し、関西市場の覇権を握って | ||||||
“八雲片栗粉”の声価を博すようになった。 |
2011/09/21 00:49:39
<西南戦争と屯田兵> |
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西南戦争が勃発した明治10年2月、屯田事務局は黒田開拓長官の命令で、 | ||||
屯田兵小隊を函館港に派遣した。第一中隊の安田安中尉が30名の部下とともに出動 | ||||
し、約1カ月間船舶を監視する任務に就いた。反乱の拡大がないと見極めが | ||||
着いた3月下旬に引き揚げた。 |
||||
4月10日黒田長官は屯田兵第一大隊、つまりは屯田兵全部隊に出征を命じた | ||||
屯田兵は小樽港から出向し、熊本県の百貫に着き、小島町に宿営した。 | ||||
27日に別働第二旅団に所属することが決まり、鎮台兵一中隊と狙撃兵若干 | ||||
が配属された。以後、屯田兵は八代から人吉への進撃に加わって、交戦を | ||||
重ねた。屯田兵の下士兵卒には東北諸藩の士族出身が多かったので、戊辰 | ||||
戦争の敵だった鹿児島県士族を相手とするこの戦争に奮い立った。 | ||||
しかし、将校の地位を占めた鹿児島県出身者には戦意が乏しく、8月2日の | ||||
一瀬川の戦いを観戦したある官軍将校は、屯田部隊で「戦争をしている | ||||
のは下士兵卒で将校ではない」と評したという。戦争の終わりが見える | ||||
と8月16日に帰郷命令を受けた。 | ||||
戦争中、屯田兵は戦死7人、戦病死20人、負傷20人の損害を出した。 | ||||
屯田兵は都ノ城、神戸、東京を経由して9月30日に札幌に戻った。 | ||||
途中、9月3日に屯田予備兵とともに明治天皇の観閲を受け、慰労の言葉を | ||||
賜った。戦後の論功行賞は、非難の的だった鹿児島出身将校に厚く勇 | ||||
戦した他藩出身者に薄かったため、1人の将校が抗議の切腹をした。 |
2011/09/19 00:51:00
北海道の歴史(年表) 明治10年
2月3日 | 西郷隆盛、私学党を率いて遂に官軍対抗の意を決す。 | ||||||
2月15日 | 西郷隆盛が挙兵(西南戦争始まる)。2月22日西郷軍、熊本城を包囲。 | ||||||
3月3日官軍、薩軍と田原坂で激戦。3月20日政府軍、激戦の末、田原坂を占領。 4月14日黒田清隆率いる政府軍、熊本城に入る。5月31日薩摩軍敗れて、悉く肥後人吉に退く。 |
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9月8日官軍、鹿児島城山を包囲。 | |||||||
9月24日 | 西郷隆盛、桐野利秋ら城山で自決。(西南戦争終結)。 | ||||||
※ | 琴似小学校前身開設。 | ||||||
※ | 開拓使雇エドウィン・ダンの意見と設計に基づき、近代西洋式牧場として再編整備され | ||||||
「新冠牧馬場」と改称する。 | |||||||
※ | 札幌ビール発売 | ||||||
※ | 「北海道地券発行条例」地価査定・地租創定,先住民アイヌ民族の居住地も含めた | ||||||
大部分は国有地とされ,その中から広大な御料地(北海道全面積の2割強)が作られた。 | |||||||