2009/10/03 00:12:39
新十津川開拓史 2
(新十津川町HPより)
新たな生活地を求めて
600戸・2489人が北海道への移住を決断。
「必ずや第2の郷土を建設する」と固い意図を胸に
秘め旅立つことになった。
10月に3回に分かれて神戸から船に乗り小樽へ。
このころ約1200キロ離れた北海道では、屯田兵制度に続いて
明治19年には植民計画が採用され、全道的な開発が始まろう
としていた。
特に樺太経営とロシア南下への防備対策から、石狩平野開拓は
緊急課題であった。
初めての北海道の冬を・・・
小樽から市来知(現・三笠市)までは汽車で、その後徒歩で空知太(現滝川市)へ。
病人や老人、子供は囚人に背負われた。
空知太の屯田兵屋は建設中でまだ150戸しかなく、1戸に移民4戸が入った。
そんな中でも、トック原野への入植準備が進められ、新しい村の名前も決められていった。
また、一致団結して開拓を成功させようと「移民誓約書」が起草された。
雪解けを待って石狩川を渡る・・・
遅い北海道の雪解けを待って、石狩川を渡り、植民区画の第1号としトック原野に入植した。
明治23年6月のことであった。
水害被害から10カ月、政府の保護を受けた十津川移民は、現在につながる最初の一歩を
こうして入れることとなった。
大木が生い茂る未開の大地、厳しい自然が移住者の前に立ちふさがる。
困難を極めた開墾・・・
うっそう茂った原始林を切り、根を起こし、燃やしながら、少しずつ開墾を進めた。
十津川人は、元来林業に従事していたので、伐採は得意だったが、笹や草の根が張り詰めた
土地を耕す作業は、並大抵なものではなかった。
蚊やブヨなどの悩まされながら、入植最初の年は、ソバや大根が収穫できたくらいで、
北海道の早い冬が、訪れていた。
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